二度も目の前から逃げていった夢 亀澤理穂が2025東京デフリンピックに懸ける思い | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

卓球とSDGs 二度も目の前から逃げていった夢 亀澤理穂が2025東京デフリンピックに懸ける思い

2023.02.28

3.すべての人に健康と福祉を 8.働きがいも経済成長も

この記事を書いた人
1979年生まれ。2020年からRallys/2024年7月から執行役員メディア事業本部長
2023年-金沢ポート取締役兼任/軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

亀澤(旧姓:佐藤)理穂(かめざわりほ)の名前を知っているだろうか。

ろうあ者(聴覚障碍者)スポーツの最高峰、デフリンピック卓球競技に4大会連続で出場、これまで8個のメダルを獲っている“レジェンド”アスリートである。

日本において、デフリンピックの知名度は低い。
こんなに強いアスリートが卓球競技にいるにも関わらず、である。

丁寧な手話通訳者にも同席してもらった今回、多くの質問を投げかけた。

生まれつき耳が聴こえず、卓球を愛する家族の元に生まれてきた、一人の“ママアスリート”に。

シングルス決勝トーナメント直前で日本選手団全員が棄権

――2022年5月のブラジルデフリンピックは、シングルスの決勝トーナメント目前で、コロナ陽性者の増加によって全競技日本選手団が棄権しましたね。

前日までに、亀澤さんは団体銀メダル、ダブルス銅メダル。シングルスに懸ける思いは強かったはずです。

亀澤理穂:はい。4年間頑張ってきたことが一瞬で無くなってしまったショックはありました。

これまでデフリンピックに4回出場して、それぞれ2つのメダルを獲ってきたので、2022年ブラジル大会こそ、3つのメダルを目指していました。

戦う前にまたメダルが2つになってしまうこと、正直それは残念でした。

でも、コロナ禍で無事に開催できたことへの感謝と喜びもあって、うん、半々くらいの気持ちでした。

――もっと悔しい瞬間はこれまでありましたか。
亀澤理穂:あります(笑)。

例えば、2013年ブルガリアのデフリンピックのダブルス決勝戦。
元々小さいときから知っている、上田萌選手(2014年に引退)とペアを組んでいました。

最後はデフリンピックで金メダルを獲ろうね、という約束を二人でしていました。

決勝まで進んで、あと1回勝てばというところで、3ゲーム目の途中で私が左足首を捻挫したんです。回り込もうとした一瞬。

結局、靭帯が伸びていたんですが。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

佐藤真二監督「これはダメだ」

亀澤理穂:夢が、目の前から消えてしまった。

タイムアウトのベンチで、父でもある佐藤真二監督から「これはダメだ、もうあきらめなさい」と言われました。

でも私は最後まで戦いたいという気持ちが強くて、痛みはありましたが、最後まで戦いました。その後1ゲームは取ったんですけど。


写真:当時の監督である父・佐藤真二と亀澤理穂/提供:卓球レポート/バタフライ

――凄…。
亀澤理穂:結局、相手の中国ペアに自分が動けないコースを突かれて負けました。

でも、あのとき続けなかったら一生後悔したと思います。やってよかったと思っています。


写真:亀澤理穂(住友電設)/提供:卓球レポート/バタフライ

――上田萌選手はそれが現役最後の大会だったんですよね。
亀澤理穂:はい。シングルスで金メダルを獲って、綺麗に引退しました(笑)。


写真:上田萌(写真右)・亀澤理穂ペア/提供:卓球レポート/バタフライ

――理穂さんも、シングルスで金メダルを獲って終わりたいという思いですか。
亀澤理穂:はい、2025年東京デフリンピックでシングルスで金メダルを獲って終わりたい。それが今の自分の目標です。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

あの感動をもう一度

――昨年9月に、2025年デフリンピック東京開催が決まった瞬間はどういう気持ちでしたか。
亀澤理穂:2012年の世界ろう者卓球選手権東京大会で味わったあの感動がもう一度日本で、と嬉しい気持ちが強かったです。

外国からいらっしゃる方ももちろんなのですが、日本にいる方に、またあの感動を届けられるチャンスが来たと。


写真:2012年世界ろうあ者卓球選手権東京大会5番で勝利した亀澤理穂/提供:卓球レポート/バタフライ

――最強の呼び声高かった中国を決勝で倒して、日本が団体で世界一になったんですよね。5番で亀澤さんが勝利して世界一を決めた、そのときはどんな気持ちだったんですか。
亀澤理穂:決勝5番で勝った瞬間は、夢だと思いました。あ、これ夢なのかな?って。

ベンチに戻って、みんなとハグしたとき、ああ現実なんだ、やったあと思って、感情が沸き起こってきたことを覚えています(笑)。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

――多くの国際大会で入賞している亀澤さんでも、日本での大会は特別ですか。
亀澤理穂:はい。その2012年世界選手権の東京大会では、周りの多くのみなさんが応援してくださっていました。

勝たなきゃと思うと同時に、自分のためではなく応援してくださるみなさんのために、この特別な環境でできる卓球を楽しもうと思いました。

日本で、デフリンピックはとても知名度が低いです。今回の2025年デフリンピック東京大会を、PRできるチャンスにしたいと思っています。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

デフ卓球強豪国の理由

――デフ卓球において、日本以外ではどの国が強いんでしょうか。
亀澤理穂:中国、ウクライナ、ロシア、韓国の4つが目立つチームですね。
――それらの国の強さの理由は、練習環境や指導体制なんですか。
亀澤理穂:この4つの国は、メダルを獲ると国からいろんな助成金などが出るので、大会に人生を懸けて頑張ってきます。

国際大会に出るたびに、ベテランも新しい若手もびっくりするくらい強くなっています。

――それは大きな動機になりますね。
亀澤理穂:中国は、デフ選手も卓球そのものが仕事なので、子どもたちを教えたりしながら自分も練習できます。

韓国は、メダルを獲ると国から、生涯に渡って年金をもらえるから自分の時間がたくさん作れる、と聞いたことがあります。

ウクライナはそもそもメダルを獲ると、家がもらえると(笑)。そんな制度が日本にもあればまた違うのかなあと、海外の選手に会うたびに思います。


写真:亀澤理穂が獲得してきたメダルの数々/撮影:ラリーズ編集部

復帰の理由は“ママアスリート”

――亀澤さんは、2013年のデブリンピック後に一旦現役を引退して、また復帰されましたよね。

不思議に思うのが、既にメダルも多く獲り、でもその報酬は決して多いわけではない日本で、もう一度その目標に向かって復帰したのはなぜですか。

亀澤理穂:2013年、デフリンピックが終わった後に引退しようというのは心の中で決めていました。娘も生まれましたし。

でも、ろう者の中にも子育てしながら続ける“ママアスリート”の方もいて、子どもから「ママ、頑張って」と言われる、というSNSの投稿を見て、私もまだ頑張れるんじゃないかと。

健常者でも難聴者の中でも“ママアスリート”を諦めた人は何人もいます。

でも、経験しないまま諦めてしまうのは自分は嫌だなと思い、よし、経験してみようという気持ちで復帰しました。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

――どうでした?大変でした?
亀澤理穂:思っていたより大変でした(笑)。

子育てと、仕事と、家庭と、練習と、トレーニングと、たくさんのことをやらないといけないのに時間は限られています。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

――どう克服したんですか。
亀澤理穂:もともと普通の会社に、一般社員として勤めていました。

普通に働いて、仕事が終わってから練習に行くと、あまりに時間が無いのと、お金の面でも自己負担が多く苦しかったので、2022年2月からアスリート雇用していただける会社(住友電設株式会社)に転職しました。

それによって、少し時間に余裕ができましたし、活動に係る諸費用を支援いただいております。それが大きなポイントだったのかなと思います。

――今の職場はどういう勤務なんですか。
亀澤理穂:パラアスリート雇用にはいろんなタイプの働き方があるんですが、私の場合は週3回勤務して、残りの週2、3日は、活動日として自分が自由に使える時間になります。

補聴器が禁止されているデフリンピック

――そもそも、聴覚障害があることによっての卓球のプレーはどう変わるんでしょうか。
亀澤理穂:デフリンピックでは補聴器は禁止されているので、補聴器を取ると音はまったく入ってきません。

耳に頼ることができないぶん、目からの情報に集中します。

――卓球をするうえで、補聴器の有無で感覚は違うものですか。
亀澤理穂:全然違います。

初めてデフリンピックに出場が決まったとき、補聴器が禁止されてることを知りませんでした。人それぞれだと思いますが、私は慣れるまで一年くらいはかかりました。今でも慣れませんが……(笑)

回転の音、台にボールがつくときの音、相手が打ったときの音、すべての音が入らないので、スマッシュとドライブをどう判断するのか、どうやって回転量を判断して合わせていけばいいのか、今でも私は順応するのが大変なタイプだと思います。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

私たちは当たる最後までボールを見ている

――回転の判断には音の情報も大きいんですね。
亀澤理穂:以前、カメラをつけて実験をやったことがあります。

耳が聴こえる健常の選手は、ネットを超えるあたりでボールを見終わっている。

私たち聴こえない選手は、当たる最後までボールを見ている。それくらい私たちは目を使っていることを知りました。

目からの情報に集中しすぎて、視力も落ちてきました。

――どれくらい?
亀澤理穂:以前は視力2.0あったんですが、0.7くらいまで落ちたので、眼鏡かコンタクトの生活です。めんどくさいです(笑)。

耳の聴こえないママアスリートの子育て

――娘さんは耳が聴こえると伺いました。普段、どういうコミュニケーションの取り方なんでしょうか。
亀澤理穂:手話と口話の両方を使います。
――4歳の娘さんは手話がわかるんですか?
亀澤理穂:わかってるのか、わかってるふりなのかはわからないんですが、返ってくる答えは合ってるので、多分わかってると思います(笑)。
――子育ての場面で、聴覚障害があることで、不便だなっていうことってありますか。
亀澤理穂:あんまり感じないんですけど、寝るときには、泣き声が聴こえないので補聴器をつけたまま寝ます。

あとは、2、3歳くらいまでは、まだ耳が聴こえないということがわからないので、私が娘の話していることを読み取れず、“何?何?”って何回も聞くと、もうイヤって怒ってしまうときに、私としては心が痛いときはありました。

でも、成長するにつれてコミュニケーションは取りやすくなってきたので、今は一緒にYoutubeを見たりして、とても楽しいです(笑)。

――デフ卓球選手だけでなく、ママアスリートとしても開拓者ですね。
亀澤理穂:頑張ります(笑)。

ママアスリートになって、約4年経ちました。正直まだまだ大変なことはあるんですが、2025年東京デフリンピックでは、日本中の皆さんに感動を届けたいと思っています。

メダルを3個以上、ひとつでも金メダルを獲りたいです。


写真:亀澤理穂(住友電設)/撮影:ラリーズ編集部

取材を終えて

この取材後に行われた全国ろうあ者卓球選手権大会で、亀澤理穂は木村亜美に敗れて2位だった。

「やっと下の選手が出てきた」と嬉しそうに話すその表情に、ずっと日本のデフ卓球を背負ってきた亀澤の葛藤の一端を見た気がした。

これから私たちは、2024年パリ五輪について多くを語るだろう。

その何回に一回でいい、2025年開催のデフリンピック東京大会に懸けるママアスリート、亀澤理穂のことを思い出してほしい。

まずは2023年7月、台北で世界ろうあ者卓球選手権大会が開催されることを胸に刻む。


写真:父・佐藤真二と娘・亀澤理穂/撮影:ラリーズ編集部

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