過去にも未来にもいない、今の自分を知る企画 「0 to 100」 #43 山﨑雄樹 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

連載 過去にも未来にもいない、今の自分を知る企画 「0 to 100」 #43 山﨑雄樹

2018.11.08

今の自分ってどうやって出来たんだろう。
たまにはコーヒーでも飲みながら
過去を振り返る時間があっても良いかも。
0歳から100歳までのリアルトーク企画。
今回のゲストはフリーアナウンサーの山﨑雄樹さん。

文・取材・写真:HARU(ラリーズ編集部)

#43歳の自分とは

「人生は一度のみ。楽しいことは常に前にしかない」

引き締まった表情で自分に言い聞かせるように話す山﨑は、現在、フリーアナウンサーだ。約20年間勤めた熊本放送を今年5月で辞め、東京にやってきた。まっすぐ前を見つめる視線からは、迷いを感じさせない強さを感じる。

今年で43歳。熊本から東京に来てまず感じたことは「仕事に対する姿勢」の違いだった。「自分の地位や肩書のためではなく、好きな事のために仕事をしている人が東京には多い」と漏らす。熊本では、地元の新聞社や放送局などの有名企業に入れば、それなりに安定した生活が送れる、それが一般的な感覚だ。そのためどこか「仕事」と割り切り、自分の時間を切り売りするようなワークスタイルも多かったと振り返る。

選択肢が広がるのも東京の魅力のひとつだ。アナウンサーひとつ取っても、ジャンルも広いし仕事も多い。その分、情報の取捨選択能力は必要になるが、新たな挑戦へのチャンスはそこかしこにある。

山﨑は30代の日々を、スポーツ実況アナウンサーとして駆け抜けた。時には選手にとって人生を左右する大一番を実況することもあった。野球やサッカー、卓球、ラグビー、駅伝などスポーツであればジャンルを問わず挑戦し、入念に取材をして自分の言葉で“リアル”を伝え続けてきた自負があった。だからかもしれない。気づかぬうちに、自分が持っていた目標や目指していたことを矢継ぎ早に達成していた。40代でふと気づくと、新しい挑戦への欲求が山﨑を襲う。

視点が変わったのは熊本地震が起こってからだ。4月の震災後、山﨑は多忙を極めた。通常の生活を1日でも早く取り戻すために必死の毎日だった。
「被災による独特の疲労感や疲弊感は当事者でないと実感はできない。」
毎日泥だらけで作業する日々を「脳が止まった」と振り返る。

復興には、色んな方法があるし人それぞれの視点がある。山﨑のように自分の夢や目標に向き直ることが出来る人から、挑戦を再開することも「復興」に繋がっているだろう。震災を背負ながらも前を向き、新たな環境で自分の可能性に挑戦している彼を見れば、おのずと力が湧いてくる。
挑戦をするかしないか。43歳という年齢を物事を判断するフィルターにせず、ただ好きな事を追い求めるその姿勢には、筆者には眩しくも感じた。

as a player

「超ファイターだった学生時代。だから実況も自然と熱が入ってしまう(笑)」

三重県鈴鹿市出身の卓球少年は“超ファイター”だったがゆえに卓球ラケットを割ったことがある。理由は、”あと一歩で出場” という惜しい場面が幾度かあったためだ。
小学校の全国大会が三重県で開催された。県予選で上位6人まで出場できるところ、山﨑は7位。中学校では3人出場できるところ、結果は4位。すべてあと一歩だった時に、最後の中体連で後輩でも勝つような格下の相手に負けた。「もう卓球はしない」と卓球ラケットを割り学業に励む日々となった。

だが一方で、忘れられない素敵な思い出もある。中学生の時に大阪で国際大会があった。近鉄特急に乗りワクワクしながら観に行った。「中国のある選手が大好きで一番近くで応援していたら、来いって手招きされて。ロッカールームで写真を撮ってサインをしてもらった。」その写真は引き伸ばして、今でも実家の壁に貼ってある。山﨑の忘れられない体験だ。

子供時代の胸が熱くなるような経験は、「超ファイターな実況」にも影響しているかもしれない。国や文化、言葉を超えて対等に勝負できるスポーツだからこそ熱くなり、熱狂できる。そのリアルな感情をプレーや実況で表現する彼もまた、次世代の子供に「忘れられない体験」を届けるプレイヤーだ。Tリーグと共に彼の東京での挑戦が始まった。

Fin.