それに私が気づいたのは、決勝戦だった。
宇土クラブ(大分)のベンチに、写真が飾られている。
その写真は、まるでベンチから試合を見つめるように、背もたれの位置に掲げられていた。
写真:ベンチに写真が飾られた宇土クラブ/撮影:ラリーズ編集部
決勝戦、エースとして出場した少年の試合は、先行しては追いつかれる、苦しい展開だった。
でも、動じない。何度ポイントを取られても、また取り返す。
「以前は崩れてしまっていたんですけど、今は試合中に思い出すみたいです、お父さんと約束したから、ここで負けられないって」
母・瑠実さんは2階観客席から、諦めずに向かっていく息子の姿を祈るように見つめていた。
写真:中野純大(宇土クラブ)/撮影:ラリーズ編集部
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卓球一家を支えた父が亡くなった
少年の名は中野純大。年代別の日本代表にも入る、将来を嘱望される小学5年生だ。
中学一年の兄・純正、小学4年の妹・凛子もそれぞれの世代で期待される、いわゆる“卓球一家”である。
写真:左から父・中野純一、凛子、純大、純正/提供:中野瑠実
3人の子どもたちに卓球を教えた父・中野純一さんは、2022年2月4日、膵臓がんでこの世を去った。享年41歳だった。
そして、妻・中野瑠実さんは、卓球未経験者だった。
健康そのものだった純一さん
異変が発覚したのは、2019年10月だった。
中学校の保健体育教諭であり、卓球指導者でありつつ自身も現役でプレーしていた中野純一さんは、かつて自転車で日本一周旅行をするなど、健康体を体現したような人だった。
写真:自転車日本一周を成功させた中野純一さん//提供:中野瑠実
「いつも友人からの電話が途切れない人」というのが妻・瑠実さんの出会った頃の印象だ。
明朗快活、健康体そのものの純一さんが、ある日「お腹の左下が痛いから、一応、病院に行ってくる」と瑠実さんに告げた。
地元の病院の検査で、膵臓に腫瘍が見つかり、すぐに福岡市の専門病院で精密検査を受けた。
診断は「膵臓がん」だった。
抗がん剤治療を開始したが、1ヶ月待っても数値に改善はない。抗がん剤の効かない体質だった。
「このままだと余命3ヶ月」という医者の言葉に、手術に踏み切った。14時間かかった大手術だったが、成功した。
2020年1月には退院、4月に純一さんは職場に復帰した。
その後も1ヶ月半毎に、必ず夫婦で定期検診に通い、2021年2月には医者から「一般男性と同じくらいかそれ以上に健康だから、検診は3ヶ月空けてもいい」と言われた。
瑠実さんは一抹の不安を覚えたが、純一さんは「健康ならば自分の力で治していきたい」という思いが強かった。
中村和弘さんとペアを組み3連覇中だった全九州卓球大会も、4連覇を目指して出場するつもりだった。
瑠実さんの誕生日につらい知らせ
「じゃあ行ってくるよ」2021年4月、はじめて一人で定期検診に向かった純一さんから、お昼頃、瑠実さんに電話がかかってきた。
泣いていた。
「ごめんね、肝臓に転移していた」
この日は瑠実さんの誕生日だった。
電話で話しながらめまいがして、立てなくなったことを瑠実さんは覚えている。
父親が生き抜く姿を見てほしい
そのタイミングで、純正、純大、凛子の3人の子どもたちには、瑠実さんが包み隠さず伝えた。
瑠実さんは、夫のプレースタイルを頭に思い浮かべた。
「夫は、粘り強い卓球でした。ちょっとハラハラする卓球なんですけど(笑)、取られても取り返して会場を沸かせる。そんな卓球を子どもたちには見せてきたので、だから子どもたちには、最後の最後まで父親が生き抜く姿を、背中を見てほしいと思いました」
写真:中野純一さん/提供:中野瑠実
5年生存率は低いこと。
次のゴールデンウィークまで生きられるかどうか、と医者には言われていること。
お父さんが見られる最後のホカバ、最後のホープスになるかもしれないこと。
瑠実さんは全て話して、子どもたちと一緒に泣いた。
「父親に、夫に、最高の人生だった、卓球を子どもと一緒にできてよかったって思ってほしいから、お父さんに日本一を見せてあげようねって話しました」
その強さは、瑠実さん自身も現職の小学校教諭であることも影響しているかもしれない。
「“俺は死なない”っていう夫の言葉を信じつつ、でも、私もどこか覚悟を持って過ごさないと、もう私自身が生きていけないんじゃないかなって思いました」
夫も入った家族会議で、純一さんは子どもたちにこう言った。
「とにかくお父さんも最後まで頑張るから、応援してほしい」
「振りを覚えておいて」
その後も、純一さんは時折、勤務先の中学校に出勤を続けながら、近くの体育館を借りて子どもたちに卓球を教え続けた。小学校の勤務がある瑠実さんに代わり、子どもたちへのご飯も純一さんが作った。
瑠実さんも週4日は必ずボール拾いに行き、一緒に過ごした。
「振りはこうだから、覚えておいて」純一さんに言われたことを、卓球未経験者の瑠実さんは懸命に覚えた。
「球出しくらいできるようになりたいって言ったんですが、“お前には無理”って言われて(笑)」
もう一つの使命だった“命の授業”
家族との卓球の時間に加えてもう一つ、病と戦う純一さんを支えたものがある。
“命の授業”だ。
「保健体育は、どうしても保健のほうが簡単に扱われてしまう。いまの自分が生徒たちに生きることの尊さを伝えることは使命だ」
父であると同時に、教育者としての自分も全うしようとしていた。
2021年12月、教職同期の教諭が用意してくれた県内の中学校の授業で、純一さんは生徒たちに語りかけた。
1日1日を大切にしてほしい。
前向きに考えて自分を好きになれば幸せに生きやすくなる。
“中学生たちの目が輝いていた”と、当時の地元紙の記事が伝えている。
「千回を目指したい」と授業後に明るく語ったその言葉にも、闘病中でも失わなかった、純一さんの前向きさが滲む。
写真:中野純一さんの“命の授業”を伝える地元紙記事/提供:中野瑠実
「おめでとう、でも実は」
しかし、病は確実に進行していた。
2022年1月28日。
中野純大が東アジアホープス日本代表選考会のため、東京に向かった日に、純一さんは入院した。
「生きているのが不思議なくらいの数値です」医者はそう言った後、こう続けた。「本当に強い人です」。
純大は、その重要な選考会で、日本代表の座を勝ち取った。
周囲の人間がみな「今までで最高のプレーだ」と、目を見張るような戦いぶりだったという。
純一さんの携帯には、純一さんを慕う多くの指導者たちから選考会の途中でも逐一知らせが来ていた。
「純大、勝ったよ」「純大、代表入れた」
写真:中野純大(宇土クラブ)/撮影:ラリーズ編集部
東京から急いで戻って来た純大と話しながら、純一さんは泣いて喜んだ。
瑠実さんは、こう振り返る。
「本当はお祝いもしたかったんですが、おめでとうの後に“実は”という話をしなければいけなかったんです。子どもたちには2月越えられるかどうかという話もしていましたので」
純一さんが亡くなったのは翌週、2022年2月4日だった。
数多くの友人から来ていたメッセージを、耳元で瑠実さんが読み聞かせ続けた。
最期まで人に好かれ、人を大切にした、中野純一さんの生涯だった。
写真:中野純一さん/提供:中野瑠実