「家族3人が筋ジストロフィー」プロ卓球選手・吉田雅己が初めて明かす絆と覚悟 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

卓球インタビュー 「家族3人が筋ジストロフィー」プロ卓球選手・吉田雅己が初めて明かす絆と覚悟

2024.10.10

この記事を書いた人
1979年生まれ。2020年からRallys/2024年7月から執行役員メディア事業本部長
2023年-金沢ポート取締役兼任/軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

2024年9月8日、満を持して臨んだ金沢ポートでのデビュー戦を、男は白星で飾れなかった。

第3マッチに敗れてベンチに戻って呆然とする男に、監督の西東輝が近寄った。

「ビクトリーマッチ、雅己で行きたい」

男は表情を変えず、ひと言「マジか」と呟いた。「雅己を信じてる」監督の西東は、そう続けた。

「じゃあ、心、決めてくるわ」男はベンチから消えた。

二人は母親が姉妹の、従兄弟同士でもある。


写真:吉田雅己(右)と西東輝監督(左)/撮影:ラリーズ編集部

丹羽孝希と同世代の30歳

吉田雅己。

札幌市出身、円山クラブで卓球を始めて小学生から全国タイトルを獲得、“最強軍団”青森山田中高に進学、丹羽孝希や町飛鳥と同学年でしのぎを削ってきた男も、30歳になった。

高校3年時にインターハイ男子シングルス優勝、愛知工業大学時代に日本代表入り、2016年全日本ダブルスでは水谷隼とのペアで優勝、Tリーグも3球団を渡り歩いて重ねた28勝という勝ち星は、燦然と輝く。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

一方で、長く怪我に苦しみ、近年は出場機会が減少、指導者としての道を模索しているように見えた。

その佇まいや勝負勘から“侍”と呼ばれて卓球ファンから愛される男が、移籍した金沢ポートに懸ける選手としての思いと、これまで語ってこなかった家族の話などを語った。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

昨季はたったの“0勝1敗”

――昨季、木下マイスター東京ではコーチ兼任で、選手としては0勝1敗でほとんど出場機会がありませんでしたね。
五輪選考ポイント制もあり、オリンピックを目指す選手が試合に出るなかで、国際大会で不在で出番が回ってきたときに頑張ることが、自分のように常にいる選手の役目だと思っていました。
――Tリーグでは、常に出られる選手がどれだけ勝てるかが重要ですよね。
でも、なかなか出番はありませんでした。

ただ、試合がなく、目標が無い中でもいつも通り意識の高い練習ができていました。

やっぱり自分は卓球をやりたいんだな、選手としてもっとやりたいんだなという感情がありました。

最終的にチームも優勝できましたし、自分のやるべきことはやれたんじゃないかなと思っていますね。


写真:昨季2023-2024シーズンの吉田雅己/撮影:ラリーズ編集部

――なぜ、2年前に指導者兼任に?
自分の性格上、チームに必要な存在でいないといけない感覚がすごくあるので。

木下に2年目から強い選手が入ってきて、自分がいるからチームにとって何がプラスなのかと考えたとき、選手でありつつアカデミー事業やコーチもやることで自分の価値を出したいと思い、自分から志願しました。

――やってみてどうでしたか。
思っていた以上に難しかったです。

自分の指導論もどんどん変わっていきました。どういう言い方をすれば選手にうまく伝わるか、とか、怒るか怒らないか、とか、もっと言ってあげればよかったという後悔もあります。

選手より指導者のほうが難しい。今までいろんな指導者にお世話になったんですけど、改めてリスペクトと感謝を感じました。

従兄弟からのオファーに「気持ちが高ぶった」

――そして、従兄弟であり、かつて全日本3位のときのベンチコーチであり、いま金沢ポート監督である西東さんから選手としてオファーをもらったとき、どんな気持ちだったんですか。
「もう1回選手としてやろう、俺が強くするから」という心強い言葉をいただいて、気持ちが高ぶりました。

僕は自分のことをうまく話せて相談できるタイプではないんですが、子どもの頃から知っている親戚ということもあって、いろんなことを吐き出して相談できました。


写真:従兄弟同士の吉田雅己(右)と西東輝監督(左)/撮影:ラリーズ編集部

監督よりもっと“卓球オタク”

――従兄弟でも、あんまり似てないですね(笑)。

ひょっとして吉田選手も、寝る前ずっと試合動画を見るんですか?

見ますね。そこに関しては、おそらく西東監督を超えてます(笑)。
――似てました(笑)。トップ選手ではめずらしいですよね。何を見るんですか。
おそらく、試合動画は見たことない試合がないくらい見てます。中国選手の上のほうの試合はほぼすべての試合を10回以上見ていて、特に大好きな張継科は、最初の音を聞くだけでどの試合かわかります(笑)。


写真:吉田が何十回と観ていると語る張継科(中国)/提供:ittfworld

(金沢ポートに今季参入した)チャンウジンの試合も全部見てるので、今日初めて練習するとき“あの試合、ここでああだった”という話をしたら「全部知ってるね」って驚いてました(笑)。

そのときの点数とか、次どっちが取るとかもう覚えているので、そこは面白くないんですけど(笑)。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

――なんでそんなに見るんですか。
1回だとわからなかったものが、5回、10回見ると「こういう戦術転換をしたんだな」とか、試合の中身まで見えてくるんですよ。それが楽しい。
――1試合まるごと、早送りせずに見るんですか。
はい。

中学・高校のときはスーパーラリーみたいなのが好きでしたけど、今は逆に試合の展開や流れとかを見るほうが好きですね。

――それが自分の試合にも生きてるんですか。
うーん、強くなるために見てるとかじゃないんです。その試合のことが細かく知りたいという、卓球オタクみたいな感じです。趣味というか。

自分の試合はあまり好きじゃないです、これは自分のダメなところなんですけど(笑)。

“吉田でも勝てるんだから自分も”

――卓球選手としてエリートキャリアを歩みながら、自分が強くなるだけでなく、他選手の試合動画も趣味として見続けるのは、ひとつの個性ですね。
“卓球オタク”と呼ばれるのが、一番ピンと来るんです(笑)。

選手としては、順風満帆ではなかったと自分では思ってます。不器用なりに一生懸命やるなかで、卓球を、自分がプレーするだけでなくいろんな面から考えてきたから、どうにかやってこれたんだと思います。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

――多くの草プレーヤーにとって、吉田選手の姿は“自分も頭を使えば、もうちょっと勝てるかも”と励みになる気がします。
“吉田でもここまで強くなれるから自分もなれる”くらいに、思ってほしい。

僕より技術能力も高い器用な選手はたくさんいたわけで、僕の感覚としてはもったいない、頑張ったらもっと強くなれるのに、と思ってきました。

逆に言えば、不器用だから頑張れる、技術がないから考える、という面もあります。その意味では、器用じゃなくて良かった、とも言えるかもしれません。

――深いですね。
天才は、あるところまでは才能だけで勝てるんですけど、でもどこかで絶対に壁にぶち当たると思うんです。

そこから、天才であっても考えて壁を突き抜けていった選手が本当にスターになれる。それが、水谷さんであり、(松平)健太さんであり、丹羽選手であるわけで。

僕は不器用で技術では点が取れず、頭で考えるしかなかった。結果的に、不器用で良かったと今は思っています。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

2拠点生活の理由

――さて、金沢ポートと契約してから、札幌と金沢の2拠点生活なんですよね。
はい。つい先日第二子が産まれたんですが、家族は札幌の僕の実家近くの家に暮らしています。

金沢市内にもアパートを借りて、僕自身は札幌と金沢の両方で活動しています。

――にも関わらず、石川県内だけでも、今季開幕前までに吉田選手は20ヶ所以上の学校やクラブを回ってますよね。

“この間来てくれたから吉田選手のファンになった”という子どももいました。


写真:2024年5月野々市中学を訪問した吉田雅己/提供:金沢ポート

試合に応援に来てくれたり、“覚えてますか”とか話しかけてもらえることは、すごく嬉しいです。

選手として試合で良いパフォーマンスをすることももちろん大事なんですけど、自分が誰かの卓球を強くなるための力になったり、卓球面白いなと思ってもらう活動にも、意味があると今は考えています。

――札幌に、ご自身の卓球場もオープンさせましたね。
それは全く考えていませんでしたけどね(笑)。

いつかは地元に卓球場を作りたいと思っていたところに、運良くお話をいただいて、僕自身の練習拠点が札幌にも欲しかったので。

2024年9月にオープンしたばかりの札幌の卓球場「TABLE TENNIS YOSHIDA」

筋ジストロフィーの家族が3人

実は、北海道に戻った一番の理由は、実家の家族の世話をするためです。

父親の病気が進行しつつあり、去年、病院から家に帰ってきた際、今まで以上にサポートをしないといけない状況になりました。

筋ジストロフィーという病気です。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

――遺伝的な異常によって、筋肉が徐々に萎縮して運動機能が低下する、国指定の難病ですね。
はい、進行性なので良くなることはないです。昨年父がコロナに罹り、生死の境を彷徨ってからは歩くことも難しくなってしまいました。

あと、自分には兄が二人いるんですが、兄二人も父と同じ病気を患っています。

――5人家族の中で3人、筋ジストロフィーに罹っているんですか。
先に発症したのは父より兄二人のほうです。

自分が中学から北海道を離れてすぐ、兄二人の筋力・握力が弱い、少し知能が低いなどの症状から検査に行って、診断を受けました。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

「母にとっては自分が支え」

――お母さんがずっと、お父さんやお兄さんたちのお世話をしてきたんですね。
中学から自分はずっと北海道を離れたので、20年近く母だけがサポートしてきました。

それでも、全国大会にはどこでも必ず母とおじいちゃんが来てくれました。関係者の間ではちょっと有名なくらいに(笑)。

自分も、試合前に家族を見つけて“頑張ってくるね”と、アイコンタクトするのがルーティンになっていました。

――家族は、吉田選手の力にもなっていたんですね。
はい。ただ、父の病気が進行してくると、やっぱり母親からしても、自分が支えで。

今まで自分はやりたい卓球だけをずっとやってきて母親に迷惑をかけてきたので、今年からは自分も実家近くに住み、家族を支えながら選手としてもしっかり活動したいと思っています。

――お母さんは何か言ってましたか。
母親は今までも、自分が言ったことはすべて、何も言わず賛成してくれるんです。

ただ、今回北海道に戻ると伝えたとき、“正直、帰ってきてくれてよかった”と言うのを聞いて、いま決断して良かったと思いました。

――突っ込んだ質問ですが、遺伝性の病気であれば、吉田選手自身にそれを疑ったことはないんですか。
それはあんまり思わなかったですね。怪我をしてしまうときも、ハードワークなど明確に原因があったので。

ただ、自分が結婚する前に、北海道に帰ってお世話になっている病院に行って検査をして、自分自身がその因子を持っていないことをクリアにはしました。

自分はずっと早めに子どもが欲しいと思っていましたが、絶対に妻や妻の両親も不安な部分はあるだろうと思ったので。

検査前に妻が“もしあったとしたとしても全然大丈夫だよ”と言ってくれていたことは心強く、本当に感謝しています。

今回打ち明ける理由

――ご家族の病気が、これまでの進路選択に影響してきたことはあるんですか。
いや、自分のことも大事だったので、自分の卓球のためにどこに行ったら強くなれるということを一番大事にしてきました。

ただ、我慢したことは全くないですが、安定しないといけないという気持ちはありました。

特にこの数年は、金銭面も含めて家族のこともしっかり考えつつ、その中で自分のやりたいことをやろうと考えています。

――ご家族の病気の話、これまであまりしてこなかったですよね。
今までは必要ないと思っていました。だけど、今日は母にも事前に理解してもらって話してます。
――なぜ今、話そうと。
自分の理想でもあるんですが、特に金沢ポートは地域密着チームなので、本当は選手はその地域に住んで活動するべきだと思っています。

そうなんですけど、自分はこういう理由でそれができない。

監督は親戚なのでわかってるんですが、ファンの方や関係者、地元の方にもその事情を伝えたかったという思いです。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

――地元のファンも、金沢ポートで生き生きとプレーする吉田選手を楽しみにしています。
今は、試合ができるという喜びを感じながら練習しています。

とはいえ、金沢ポートもすごくレベルが高い選手ばかりなので、まずは監督にオーダーを書いてもらえるように必死で頑張ります。

――従兄弟の監督も、背水の陣で臨む二年目ですから。
はい。

監督はもちろん、選手もスタッフもみな、自分が信頼できる方たちばかりです。

去年、対戦相手として金沢ポートを見ていて、ここでプレーしたいと思えた、圧倒的なホームの雰囲気でした。

ファンの皆さんと一緒に勝ちに行きたいと、本気で思っています。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

そのラケットは離さず

さて、冒頭のビクトリーマッチに戻る。

結果、吉田は英田理志(静岡ジェード)とのビクトリーマッチにも敗れた。先行されて追いつき、また先行されては追いつく、これまでの吉田の選手人生のような辛抱の展開だった。

デュースの末、最後は相手のボールがネットインして敗れた瞬間、思わず脱力して天を仰いだが、手から滑り落ちそうなラケットは離さなかった。

“侍”と呼ばれる不器用な卓球オタクの、矜持だった。


写真:吉田雅己(金沢ポート)/撮影:ラリーズ編集部

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