「Tリーグ」構想の原点、開幕、突然の退任劇…開拓者・松下浩二、その軌跡を語る | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

卓球インタビュー 「Tリーグ」構想の原点、開幕、突然の退任劇…開拓者・松下浩二、その軌跡を語る

2020.11.10

この記事を書いた人
1979年生まれ。テレビ/映画業界を離れ2020年からRallys編集長/2023年から金沢ポート取締役兼任。
軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

 野球界におけるメジャー挑戦の先駆者・野茂英雄が、サッカー界での川淵三郎のように日本にプロリーグを作ったと言えば、その偉業がわかりやすいだろうか。

 松下浩二、53歳。

 現役時代には、国内で誰もいなかった「プロ卓球選手」となり、さらには本場のドイツリーグ、世界の盟主たる中国リーグ本格参戦という道も切り拓いた。


写真:福原愛も挑戦した中国超級リーグ、その数年前に松下浩二は日本人男子として初めて参戦した/提供:ittfworld

 引退後の2018年。ついには日本に、卓球プロリーグ「Tリーグ」を誕生させた。

 これら数々の日本初が、松下が卓球界における「野茂で川淵」、パイオニアたるゆえんだ。優しい顔をした異端の開拓者は、いかにして道を作り、何を残していったのだろうか。


写真:Tリーグ女子初代年間王者に輝いた日本生命レッドエルフ/撮影:ラリーズ編集部

 2018年10月24日。

 両国国技館の中心に据えられていたのは、土俵でもリングでもなく、たった一台の卓球台だった。

 強烈なスポットライトに照らされ、松下が宣言した。

「Tリーグを、開幕します」


写真:Tリーグ開幕宣言をする松下浩二/提供:©T.LEAGUE

 短い言葉に、万感の思いを込めた。詰めかけた5,624人が、拍手で称えた。

 男女4チームずつの卓球プロリーグが、この国で幕を開けたのだった。

「ああ、ついに立ち上がったんだって、あのときだけは快感でした」

 歴史的瞬間を、松下はそう振り返る。


写真:2018年Tリーグ開幕の様子/撮影:ラリーズ編集部

 そう。あのときだけは-。

 約10年にわたる準備は、苦難の連続だった。

卓球フィーバーという追い風

 松下が現役を引退したのは41歳、2009年のことだった。プロリーグ発足へ向け走り始めた松下の背を押すように、卓球界には明るい話題が続いた。

 特に2010年代に入ると、日本卓球協会が注力してきたジュニア世代からの強化が実を結び始めたのだ。


写真:リオ五輪団体で銅メダルを獲得した福原愛、石川佳純、伊藤美誠/撮影:YUTAKA/アフロスポーツ

 福原愛が先行して知名度を獲得していた女子が、2012年ロンドン五輪で団体銀メダル、2016年リオ五輪で団体銅メダルを獲得。

 続いて男子も、リオ五輪で団体銀メダル、個人シングルスでは水谷隼が日本人男女通じて初となる銅メダルを獲る。


写真:リオ五輪で2つのメダルを獲得した水谷隼/提供:ロイター/アフロ

 ”愛ちゃん”は別格としても、これほどまで卓球選手がお茶の間をにぎわせたことはなかった。

松下だけが持っていた確信

 それでも、卓球のプロリーグ発足を本気にする人は、ほとんどいなかった。

 それまで日本卓球界を支えてきたのは実業団による「日本リーグ」だが、興行を前提とするプロリーグとは本質が違う。

 卓球台はわずかタテ約2.7m、ヨコ約1.5mほどの大きさ。視認性を考えると、観客動員にも限界がある。

 スポンサー獲得、資金調達、トップ選手の確保、各地の試合会場の押さえ…。

 どこをどう切り取っても、プロリーグのハードルは高かった。


写真:Tリーグの卓球台/提供:©T.LEAGUE

 ただ、松下だけはこう確信していた。

「僕としては、日本で立ち上がらないほうが不思議。もっと小さい国だってプロのリーグがある。日本はこんなに裕福な国で、卓球が強くて、人気があるんだから」

開幕まで1年半という短距離走

 
 メダルラッシュにより空前の卓球ブームが到来、千載一遇のチャンスが訪れた。

 松下の地道な下準備と圧倒的な情熱に応える形で、2016年、ついに日本卓球協会からプロリーグ創設準備への正式なゴーサインが出た。

 このとき、すでに松下は2018年の開幕を構想していたという。


写真:Tリーグで勝利後、ファンの声援に応える石川佳純/提供:©T.LEAGUE

 しかし、いくら地ならしがあったとはいえ、準備室設立から実質1年半で開幕というのは、荒唐無稽にさえ見える。
 
 本人には、明確な読みがあった。

「東京五輪がある2020年(のちに延期)が終わったらスポーツに対しての関心が薄くなったり、スポンサーを集めづらくなったりするかもしれない。2019年だとオリンピックの1年前だし選手に迷惑がかかるかもしれない。五輪の2年前、2018年がいい」


写真:松下浩二:撮影:田口沙織

「誰にも負けない努力を」

 先立つものは、やはりお金、スポンサーだった。

 あの企業の社長さんは、学生時代は卓球部だったらしい。息子さんが卓球をやっているらしい。オフィスに卓球台があるらしい。社会貢献事業に興味があるらしい。少しでも脈があれば、とにかく会いに行った。

 立ち上げ期から松下と行動を共にしてきた関係者は、その行動力をこう語る。

写真:リーグ創設に奔走した松下浩二/撮影:ラリーズ編集部

「この社長に提案しに行きたい!と大手企業の社長の名前を出すと、どれどれとスマホをいじって、その社長の公開されているSNSに直接メッセージをする。知り合いなんですか?と聞くと、え、知らないけどって。先方もびっくりしてお返事をいただくことが多いんですが、その流れでプレゼンさせていただくことが多々ありました」

 松下は、スタッフらの誕生日に「誰にも負けない努力をしてください」という言葉を贈っていたという。

「他人と比べても仕方ないけど、誰よりも努力をする、ということは、自分でできることだから」


写真:松下浩二/撮影:田口沙織


写真:松下浩二/撮影:田口沙織

 事実、松下はそれまで全く卓球と縁のなかった企業を、次々とTリーグパートナーに呼び込んできた。

 筆頭が、「ノジマTリーグ」というタイトルパートナーとなった家電量販大手のノジマだろう。シーズン途中での大型パートナー契約は、明るいニュースだった。


写真:タイトルパートナー契約を発表する松下浩二と株式会社ノジマ・ 野島廣司社長/撮影:ラリーズ編集部

 高校まで卓球部に所属していたノジマの野島廣司社長を、松下はこう口説いたのだという。

 卓球界をよくしたい、リーグを盛り上げたい、やるからには世界一を目指したい―。

 野島社長は、往時をこう振り返る。

「話をもらったのが5、6月だったので、秋の開幕には間に合わないだろうと何度かお断りしたのですが、彼は粘り強かった」

 こうした例は、枚挙にいとまがない。


写真:Tリーグで熱戦を繰り広げる張本智和/提供:©T.LEAGUE

世界一のリーグを

 
 プロリーグという箱ができたとしても、肝心な中身がスカスカでは意味がない。国内のトップ選手は、男女共に、世界ランクを上げるため国際大会への参加も多い。いくら「一緒に日本を盛り上げよう」と口説いても、選手自身にとって成長する見込みがなければ、参加を望むことは難しい。

 そこで、松下は参加チームに必ず1人は世界ランク10位以内相当の選手を入れるという高いハードルを課した。観客にとってはもちろん、選手にとってもまた「世界一のレベル」を用意することが、Tリーグ参加の決め手となる。


写真:Tリーグに参加する侯英超(ホウエイチョウ)は2019年全中国選手権で優勝した/提供:©T.LEAGUE

 それは、たった一人の日本のプロ卓球選手として、海外で戦い続けた松下の確信だった。

「尊敬する松下さんからの誘いだったこと、あと、中国人選手と戦えると聞いたから」

 いち早くTリーグ参戦を決めた、東京五輪日本代表の丹羽孝希は、当時の心境を語っている。


写真:インタビューに答える丹羽孝希(2019年10月)/撮影:伊藤圭

 ただし、海外のトップ選手から選んでもらえる「格」のあるリーグにするためには、資金(報酬)という大前提や、スケジュールや契約という細部に至るまで、難題も多かった。

 関係者が「いつ寝ているのか」と舌を巻くほど、各方面とタフな交渉を続けた松下は、本当に、準備室設立から1年半でプロリーグを開幕させたのだった。


写真:華やかに幕を開けた、Tリーグ2018開幕セレモニー/提供:©T.LEAGUE

Tリーグ構想、2つの原体験

 しかし、なぜそこまでして日本に卓球プロリーグを作りたかったのだろうか。

 原体験が二つあるという。一度目はおぼろげに、二度目ははっきりと。

 一度目は1989年。

 大学4年時に、その年の世界選手権男子団体・個人シングルスともに1位だったスウェーデンのプロチーム・ファルケンベリに卓球留学をした。

 「実業団に入って仕事中心になる前に、記念に世界1位の卓球を見ておこう」という、軽い気持ちだった。


写真:スウェーデン卓球黄金時代を築いたヤン=オベ・ワルドナー/提供:ittfworld

卓球選手が真っ赤なBMWのオープンカーで迎えに来た

 空港には、チームメイトとなるエリック・リンドが迎えに来てくれた。ソウル五輪の銅メダリストの「足」は、BMWの真っ赤なオープンカーだった。

「スゲえなあ、卓球選手って儲かるんだと思った。家も当たり前のようにバカでかくて、卓球で飯食って、そういう世界もあるんだなって。練習に取り組む姿勢もそう。本当にラケット1本に命かけてる選手ばかり。だから世界を獲れるんだなって。ぼんやりと日本にもこういう環境があったらいいなって思いました」

 日本に戻った松下は、実業団の協和発酵(現:協和キリン)に進むも、「仕事も卓球も中途半端な自分」にいら立つようになった。そして、スウェーデンでの衝撃を思い返しながら、こう思った。
 
 日本で、自分がプロになればいいんじゃないか。

「仕事はダメかもしれないけど、でも卓球なら負けねえなって」


写真:現役時代の松下浩二//提供:山田真市 アフロ

 マラソン界で有森裕子が「プロ宣言」をして、アマチュア選手のプロ化に関して社会的な議論を巻き起こしたのが1996年。その3年前の話だった。

日本で初めてのプロ卓球選手へ

 協和発酵にプロ契約を打診したが、当時の状況では難しかった。行きついたのは、サッカーで選手とプロ契約している日産自動車だった。興味を示してくれた当時の相談役に直談判に行った。

「僕、ちょっとサラリーマン舐めてたみたいで挫折してるんです、でもプロの卓球選手になりたいので、つきましては僕を引き取ってくれませんか」


写真:松下浩二/撮影:田口沙織

 外堀を埋めるのではなく、いきなり本丸を攻める。

 その意気やよしと思われたのだろう。「レジスタード・プロ」と呼ばれたその契約は、自身の肖像権や大会賞金も松下自身が管理できる、当時では画期的な待遇だった。

同じ年にJリーグ開幕、熱狂を間近で見ながら

 もう一つの「Tリーグ構想」の原体験も、この1993年という年に深く関係する。

 同年5月、サッカーのJリーグが開幕したのだ。


写真:1993年 Jリーグ開幕戦の横浜マリノス/提供:アフロ

 松下は同じく日産を親会社とする横浜マリノスの選手たちと同じ寮に住んでいたため、その変化をまさに肌で感じていた。

「自転車に乗ってたサッカー選手が、日産車に、そしてすぐにBMWとかベンツとかに乗り始めて。寮の前には女子高生がたくさん来て、僕にまで『サインしてください』って。1週間ぐらい経つと『誰これ、こんな人いないよ』って。卓球部だってバレたら、誰も僕のところに来なくなった」


写真:松下浩二/撮影:田口沙織

 Jリーグでスターとなっていったラモス瑠偉や三浦知良は、それまでは自分と何ら変わらない「スポーツ選手」だった。

「卓球もJリーグみたいになればなあって思ったのが、プロリーグを考えた2回目ですよね。スウェーデンで感じたのが1回目で」
 
 ちなみに、プロ選手となったこの年の全日本選手権男子シングルスで、松下浩二は初優勝している。結果もしっかり残していたのだ。


写真:現役時代の松下浩二/提供:アフロ

海外リーグへの挑戦

 
 次なる挑戦は、当時世界一のリーグと称えられていた、独・ブンデスリーガへの参戦だった。自らの価値を、世界という定規で図ってみたくなったのだ。

 1997年、松下浩二が30歳のときだった。

 ドイツでは計3シーズン戦った。スタートは2部のプリューダーハウゼンだった。


写真:ドイツ・ブンデスリーガでの試合の様子/撮影:ラリーズ編集部

「当時ブンデス1部のチームには外国人枠が一人という制限があって、世界ランキング一桁の中国選手や韓国選手がいたので、僕みたいな世界ランキング20位台の選手は入れない。だから、まずは2部で一番勝って、実力を証明しなければならなかった」

 有言実行し、1部の名門ボルシア・デュッセルドルフに引っ張られた。そして、チームをヨーロッパ王者へと押し上げた。


写真:ドイツをはじめヨーロッパ各国には屋外公園などに卓球台が設置され、気軽に楽しむ光景が見られる/提供:ラリーズ編集部

 その後、仏リーグでの1年間を経て、卓球王国の中国超級リーグへと舞台を移す。

 卓球界を席巻する盟主のトップリーグに参戦する日本人男子もまた、松下が初めてだった。

 目の当たりにしたのは、国賓級のVIP待遇だった。

「ホテルから試合会場まで警察の先導でノンストップ。宿泊ホテルもフロア貸し切り。会場もお客さん満員だし、テレビ中継も入ってるから、街歩いてると普通に声掛けられるし、卓球のステータスというか人気がとても高いと、行ってみて改めて感じました」


写真:中国卓球界のレジェンド・馬龍(マロン)は国内で圧倒的な知名度と人気を誇る/提供:ittfworld

 日本卓球界低迷期に一人プロ選手として、海外リーグを転戦してきた。そこで見たのは、卓球というスポーツが持つ無限大の可能性だった。それをプロリーグという形にできるのは、自分しかいないだろうと思った。

 2009年、41歳で現役引退した松下浩二は、その経験と知見を生かして「日本に卓球プロリーグを」と動き始めたのだった。

チェアマン退任の理由とは

 引退から9年、松下はついに自らの卓球人生の集大成ともいえるプロリーグ発足を叶えた。しかし2シーズン目を終えた今年7月、開拓者は突然、初代チェアマンの職を辞することを発表した。

 コロナ禍での3季目のTリーグ運営の舵取りに注目が集まる最中の一報だった。
 
 チェアマンの重責は2年が限界だったのか。それとも、一部で報じられたように、リーグの抱えた累積赤字の責を問われたのか。


写真:卓球のボールを触りながらインタビューに答える松下浩二/撮影:田口沙織

「思った以上にお金を使っちゃったんですよ。事業ですから大体5年ぐらいで回収すればいいって思っていたけど、コロナもあって、2、3億円分のスポンサーが離れてしまった。Tリーグはとても良いスポンサーが多くて、前借りさせてくれたりして乗り切っていってたんですけど、やっぱり申し訳ないじゃないですか、前借りとか、すごく。そこだけが、つらいというより、うーん、苦しかった」

 つらいより苦しいのは、自分の夢に共感し、応援してくれたスポンサーや無数の関係者の姿が浮かぶからだ。

「そんなに僕は立派な人間じゃない」

 2シーズン目の昨季の平均観客動員数は993人。目標とする2千人という数字には届かない。加えて、11月17日に開幕する3シーズン目は無観客でスタートする。新体制に残された運営面の収支改善は、喫緊の課題である。


写真:1stシーズンで13戦無敗で日本生命レッドエルフを優勝に導き、シーズンMVPを獲得した早田ひな/撮影:ラリーズ編集部

 一方で、選手からは、世界のトップ層が参加するTリーグでの経験が特に若い選手たちの強化につながっているとする声が多く、長い目で見れば競技力の底上げや、普及につながっていくことは確実だ。

 また、戦う場所が増えた卓球選手にとっては、これまでより選手生命が長くなることも期待される。


写真:張本智和のプレーに観客も大声援を送る/提供:©T.LEAGUE

 ファン層も確実に拡大している。これまでの卓球にあまり見られなかった「ご贔屓のチームを応援する」観客文化が、各チームに生まれている。地域密着を掲げるチームによる草の根レベルの普及活動も試みが続く。

 これまで「するスポーツ」だった卓球に、「観るスポーツ」としての楽しみ方が広がり始めているのだ。

 ただ、本人はそれらの価値をことさら功績と称えられることを嫌がる。


写真:Tリーグでも活躍する平野美宇/提供:©T.LEAGUE

「Tリーグを立ち上げた一番の理由は、人のためにじゃなくて、僕が立ち上げたいから。中国に勝ちたいとか、後輩たちが食いっぱぐれないようにとかではなく、やっぱり自分がそうしたいから。人のためにって、そんなに僕は立派な人間じゃない」

「道は作る」松下流

 
 松下は、自らの価値を「切り拓くこと」に置いている。荒野に一歩目を踏み出して作った道を、あとは続く人間の方法で、形にしていってくれたらいい。

 それは例えば、Tリーグの「T.T彩たま」で指揮を執る、坂本竜介監督に見て取れる。

 坂本は、松下に続きブンデスリーガ1部・デュッセルドルフで戦った(2004-06)2人目の日本人だ。開拓者・松下の偉大さを、現地で常に感じていたという。


写真:坂本竜介(T.T彩たま監督)/撮影:ラリーズ編集部

「行く先々で、ファンやスタッフが『コージ、コージ』って声をかけてくれるんです。現地では日本人イコール松下浩二でした。カットマンで華やかだし、負けてる試合でも途中で投げたりしない。浩二さんのおかげで日本選手への印象が良く、僕らはやりやすかった」

 道は作る。あとは次の人間に任せる。これが、松下流なのだ。

卓球メーカー「VICTAS」社長に

 チェアマンを退任した松下は、次なる舞台として卓球メーカー「VICTAS」社長という道を選んだ。VICTASの前身、ヤマト卓球で松下は2010年から2017年まで社長を務めていた。返り咲いた形になる。

 VICTASという言葉は、VICTORY+明日を組み合わせた造語。

「今日負けたとしても、明日は勝者であろう」

 いかにも、松下らしい。


写真:松下浩二/撮影:田口沙織

 優しい開拓者は、この先どこへ行くのだろう。
「自分がドラえもんになりきったつもりで、こうなったら楽しいな、こうなったらいいなとか、できないことも含めて勝手に考えるんです」
 
 あんな夢こんな夢、いっぱいあるけど―。
 
 心配はいらない。空想を形にしていくのは、松下の十八番だからだ。


写真:引退試合で観客からの惜しみない拍手に応える松下浩二/撮影:アフロスポーツ

松下浩二プロフィール

1967年8月28日生まれの愛知県出身。明治大学卒業。双子の弟は同じく卓球選手だった松下雄二。日本卓球界初のプロ選手として国内外で活躍。2009年41歳で現役を引退。2018年Tリーグチェアマン就任、同年10月Tリーグ開幕。2020年7月をもってTリーグチェアマンを退任、Tリーグアンバサダーに就任。10月1日より卓球メーカー(株)VICTAS代表取締役社長。

当記事は、Rallys-卓球ニュースとLINE NEWSとの共同企画です。