【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗#1選手編


文:座間辰弘(ラリーズ編集部)

あなたはMr.TABLE TENNIS「荻村伊智朗」を知っているか?

リオ五輪、アジア選手権、世界卓球での日本選手の活躍で、一時期低迷していた卓球日本代表が実力、人気とともに息を吹き返してきている。

そして2020年に迎える東京五輪でもメダルラッシュが期待されている。

そんな今の卓球ブームよりもずっと前に卓球が花形競技だった頃のことを覚えている人もいるかも知れない。

1950年代~1970年代、「卓球日本(たっきゅうにっぽん)」の愛称で親しまれた日本の卓球は、世界選手権での優勝常連であり、戦後の日本全体を勇気づけ、日本の国際的な存在感を強くしたお家芸であったからだ。

実はその黄金時代を担った人として、「荻村伊智朗(おぎむらいちろう)」という名前を真っ先に思い浮かべる卓球ファンが世界中にいることを多くの日本人は知らない。

Mr.TABLE TENNIS(ミスター卓球)といえば、「荻村伊智朗」であると言っても過言ではない。

荻村伊智朗の練習風景(出典:Youtube)

今でも日本で開催される国際オープン戦は「荻村杯ジャパンオープン」と呼ばれている。それくらい卓球界にとって、日本にとって荻村は大きな存在だった。

荻村がまず凄いところは、高校生から始めて世界選手権で12個のタイトルをとってしまったというところである。
独自の練習方法を考え、毎日突き詰めることでおよそ4~5年で世界の舞台に躍り出た。

スポーツが文化として認知される前から卓球に入れ込んで、いくところまでいってしまった人。
関連書籍を読めば読む程、荻村に対してそんな印象を受けるのだ。

また、荻村は天才であると言われる。天才と言われる人は、得てして周囲の人間がその考えについていけず、強い対立を生むことも少なくない。荻村も例外ではなかった。

荻村の生涯については「ピンポンさん」(城島充著 角川文庫 平成23年)が最も詳しくまとまっている。読むといかに荻村がこれまでの日本の卓球にとって、そして世界の卓球界にとって大きな存在だったのかが分かる。

本記事では、「ピンポンさん」を参考にしながら、荻村がどんな人物だったのかを見ていく。

高校生から始めて世界代表に

卓球界のスターとして数々の業績を残してきた荻村は、高校生から卓球をはじめた。

元々荻村は野球のピッチャーだった。しかも中学生の頃に相当な成績を残している。しかし、戦後に卓球にのめりこむと止まらなかった。

最近の選手の中には、幼稚園より前から卓球を始めている選手もいる。時代の違いもあるが、どんな競技であっても、高校生から競技を本格的に始めて世界選手権で12個のタイトルを獲得する人間は稀だろう。

しかも、荻村が卓球を始めた頃は戦後間もない時代で物資も無く、天井に穴の空いた体育館でつぎはぎだらけの台で練習していた。卓球に関する知識もいまほど収集しやすかった時代ではない。まして、卓球だけに人生のほとんどの時間を費やすような生き方は、その当時は異常だったに違いない。

都内の進学校に通っていた荻村は、周囲が高校二年生から受験勉強対策をし始める中、高校三年生の最後まで卓球に打ち込んだ。もちろん、学校の成績は下がる一方だった。母親は息子の将来を憂慮した。

それでも、荻村は卓球を辞めなかった。大学は卓球が強い学校では無かったが、通っていた「吉祥クラブ」で卓球を続けた。荻村が最初に注目を浴びたのは、都立大学時代に全日本軟式選手権で優勝したことがきっかけである。しかし、当初は卓球の名門ではない都立大学を卒業するタイミングで一時は卓球をきっぱり辞めるつもりだった。

転機は大学生時代

しかし、絶対に通過出来ると思っていた全日本選手権の東京都予選で負けてしまったことがきっかけで、もう一度奮起して続けることになり、その後卓球名門の日本大学に特待生として編入することになる。

一台しか置いていない卓球場に十人以上の選手がひしめく環境であったが、どうして強くなれたのか。

荻村は強くなる為の考え方を書籍などに残しているが、当時残していた手記には誰にも理解されない天才の苦悩がにじみ出ている。

「親にもあれだけ苦労をかけてやってきたのに、心が乱れたり、試合で負けることはふだんが甘いのだ。だから平常心をもっときたえなければいけない。」

「天才には彼の良き理解者、心の援助者が必要だといった様な事をルーヂンが言う。天才を理解できるモノがいるか。そいつも天才か。」

「我々は学業も仕事も犠牲にして、なぜこれほど厳しい訓練をし、限界に挑戦しているのか。それは人間の文化の向上に寄与するためだ。」

「俺が死ぬときなにを思うだろう。それを思うとき、いっときも無駄なことはできない。」

誰でも練習を続けていくうちに、練習時間に比例して強くなる。また、何かをきっかけに自分の卓球のスタイルが変わっていくタイミングがある。それを独自の工夫と修練で荻村は極限まで突き詰めていった。たった4~5年で世界で勝ち続ける選手になるのは並大抵の努力では出来ない。

世界選手権代表になっても、当時は日本卓球協会にお金がなく、個人で海外渡航費を負担しなければいけなかった。渡航費80万円を実家がまともに払えない為、周囲の方々が協力して街頭カンパを続けたことで、目標の額を何とか集め、大会現地に行けるようになった。

1954年の世界選手権で初出場の荻村選手は団体戦、シングルスで優勝する。すると、帰国前は無名だった荻村は一躍時の人になった。

51%理論

荻村が卓球に吹き込んだ新しい風は、より早いスピードで威力のある球でラリーの決着をつける卓球だ。それまでは安定したミスの無いラリーを続けることが重視されていたが、それでは勝てないと、一か八かのリスクをとって先に攻める卓球を進めた。

相手より1%でも多く攻撃が入れば勝てるという意味で「51%理論」と呼ばれる考え方である。

荻村は、スポンジラバーという従来より弾むラバーを使い、鍛えられた肉体とフットワークを駆使して、先手をとって前陣で「スマッシュ」を打ちにいくスタイルをとっていた。このスタイルを追求する為に厳しい練習を選手に課していた。

1980年代に、回転をかけて、より安定感と威力のある「ドライブ」を決定打にし、両ハンドを得意とするスタイルが現れるまで、「スマッシュ」による前陣速攻は卓球界の主流の戦い方だった。

卓球はそれぞれの時代に応じて、競技そのものの在り方を革命的に変えてしまう選手が生まれる。荻村はまぎれも無くそのうちの1人だった。

先輩達が卓球をやっている姿に魅了されて、野球から転向した荻村。高校生から卓球を始めて、世界のトップ選手として名を馳せ、一躍スターになった。

その後1960年代まで、監督、指導者も兼任しながら活躍する名選手となる。その結果、世界選手権のタイトルは団体戦で五回、シングルス二回、ダブルス二回、混合ダブルス三回の計十二個獲得した。国際トーナメントの優勝は百回をこえた。

しかし、荻村が更に活躍するのは、むしろ卓球の競技選手を引退してからだった。
(【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗#2ピンポン外交編に続く。)

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