【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS荻村伊智朗 #2ピンポン外交編


文:座間辰弘(ラリーズ編集部)

ピンポンを通して外交官へ

前編(【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗 #1選手編)の通り荻村は世界一の卓球選手となった。

この、ただの「とても強い卓球選手」だった荻村がいつから「ピンポン外交官」と呼ばれるようになったのだろうか?

外交の仕事を息子にして欲しいと思っていたのは荻村の母である。外国船の船長だった父が生前に海外を飛び回っていたこともあり、母は息子に外交官になってほしいと思っていた。戦後、様々な国々と交流をするようになる時代が来ると予想して。

確かに、荻村は、中学時代に高田馬場の通訳養成学校に通ったことをきっかけに、語学に堪能となっていた。後に世界選手権に出場する際、日本代表選手の通訳の役目を果たすほどだ。

しかし、荻村は高校時代から卓球にのめりこみ、学業がどうしてもおろそかになった。荻村の母は心配した。卓球のような道楽は金にならない、というのが当時の考え方だろう。

まして、スポーツを通じて外交に貢献するという考え方も無かっただろう。

しかし、結果的に卓球を通して外交官的な役割を果たすようになる。

ピンポン外交のきっかけ

荻村が、後に「ピンポン外交官」と呼ばれる程、卓球を通じた国際貢献をするようになったきっかけのエピソードがいくつかある。

1つは、1955年のオランダ・ユトレヒトで行われた世界選手権の出来事である。日本選手団が外国人選手を助けるファインプレーをしたことがきっかけでオランダの対日感情が大きく改善されたのだった。

戦前、日本はオランダが持っていたアジアの植民地を奪った為、戦後のオランダの対日感情はそれまで非常に悪かった。そのため、日本選手は試合中至る所でブーイングや嫌がらせにあってきた。

ところが、大会中にハンガリーの選手が転倒する際に日本選手団がとっさにかばったことがきっかけで、日本選手団の評判が良くなり、対日感情も改善されたというのだ。

そのハンガリーの選手は、小児まひがあり、かばい手が利かないため、頭から転倒すると大けがをしてしまう。そこで日本の選手がとっさに転倒をかばったことで、大けがをせずに済んだ。

この出来事をきっかけに、急に現地メディアの論調が変わったのだと言う。日本大使館に対して連日ぶつけられていた投石や卵、ケチャップなどのブーイングが無くなった。当時の鳩山首相は試合の結果よりも対日感情が改善されたことを日本選手団に感謝した。

ちょうど選手団の一員であった荻村は、この出来事をきっかけにスポーツを通して国同士の関係を良くする大きな可能性があることを知った。

もう1つのきっかけは、卓球競技は国際卓球連盟(ITTF)の方針のもと、戦後すぐに国際スポーツの舞台に戻ることが出来たことにある。

荻村が卓球にのめりこんだのは戦後のことだったが、戦後すぐに国際大会で日本選手が出場し、活躍するようになったため荻村も活躍が出来た。

敗戦国の日本があらゆるスポーツで国際舞台から締め出されるなか、いち早く日本の再加盟に動いたのは国際卓球連盟(ITTF)だった。

1926(大正15)年に設立されたITTFには「国歌と国旗は使わない」という他の競技団体にはない憲章があった。

世界選手権に参加するのは国ではなく、それぞれの地域にある卓球協会という認識だった。初代会長のイギリス人、アイヴォア・モンターギュは「スポーツで国と国との間にある障壁をとりのぞきたい」と、公言していた。(出典「ピンポンさん」p.85)

ITTFのこの「オープンドアポリシー」により、日本は1949年にITTFへの再加盟が可決され、いち早く国際スポーツの舞台に復帰し、荻村の先輩にあたる世代が国際舞台で活躍し、荻村も日本の代表として活躍することが出来た。
(この「オープンドアポリシー」は、1988年のソウル五輪で卓球が正式種目となった際に無くなってしまう。)

国籍・国家の政治的関係を越えて、卓球と言うスポーツは誰にでもチャンスを与えてくれる。そんな思いを持ったからこそ、荻村は卓球を通じてもっと世の中を良くしようと思うようになったのかもしれない。

ピンポン外交

荻村が直接、間接的に関わった「ピンポン外交」は、大きく2つある。

1つは、文化大革命後に中国選手が卓球大会(1971年名古屋大会)に出場出来るように働きかけをしたこと。中国選手が出場したことで、たまたま現地に参加していたアメリカ代表選手との交流が始まり、米中の国交正常化の足がかりとなったのだった。

この件に関しては、当時の日本卓球協会の後藤氏が先頭にたって取り組んでおり、荻村はあくまで陰の立役者であった。

もう1つは、1991年の千葉で開催された世界選手権に韓国・北朝鮮の両チームに働きかけて、朝鮮半島の南北合同チームとして出場出来るようにしたことだ。

当時、東西冷戦の「雪解け」のムードのなか、1988年のソウル五輪の数年前から、国際スポーツにおいても南北合同チームを結成しようという議論はされてきたが、最終的な合意までなかなかこぎつけることが出来なかった。

スポーツの実力は、北朝鮮と韓国において競技によってはかなり差が開いている。しかし、卓球においては北朝鮮と韓国の実力がかなり拮抗しており、合同チームを結成する条件としてはちょうど良かった。

1987年にITTFの会長となった荻村は世界選手権が開催される直前まで北朝鮮側と交渉を続け、遂に南北合同チーム「統一コリア」として出場出来るところまでこぎつけた。その後、オリンピックの候補地となっていた長野での合宿を決め、開催直前までの間支援を続けた。

チーム「統一コリア」は、この大会の女子団体戦で中国に勝ち初優勝を果たした。当時、中国女子チームは世界でもほぼ負け無しの状況だったので、「民族初の快挙」と言ってもおかしくない。その様子が「ハナー奇跡の46日間ー」という作品で2012年に映画にもなっている。

荻村は、千葉大会の四年後に朝鮮半島の南北で合同で世界選手権を開催することも考えていた。

前半の団体戦を平壌、後半の個人戦をソウルで開催し、団体戦の日程が終了してから、各国の世界代表の乗ったバスが平壌から南北の国境である板門店を通って韓国入りするというビジョンだ。

卓球をより多くの人に楽しんでもらう為に、どんなしかけを卓球と言うスポーツの場で作れるか。

荻村はそのことをずっと考えていたのだろう。

【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS荻村伊智朗 #3卓球普及活動編に続く。

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