【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗#3 卓球普及活動編


文:座間辰弘(ラリーズ編集部)

卓球の普及

【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗#1選手編
【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS 荻村伊智朗#2ピンポン外交編

荻村は、「世界一の選手」「ピンポン外交」というキーワード以外でも卓球というスポーツを通して様々な活動をしている。

まず、実績を出したのがコーチ業だった。現役時代から国内だけでなく海外の選手の強化指導に努めてきた。その後ITTF会長に就任してからは、80ヶ国以上の国々を訪問し、それぞれの地域での卓球の在り方を考えていた。

海外からもフランス、インド、サウジアラビア、イギリス、カナダ、オーストラリアなど様々な選手を日本の卓球場に受け入れた。後にITTF会長に就任するアダム・シャララ氏も荻村の施策がきっかけで日本に練習に来た選手の一人であった。

海外の選手強化が最もうまくいったのは、世界的強豪となっているスウェーデンだろう。多くの世界的選手を輩出し、1960年代にはアルセア、ヨハンソン、1970年代にはベンクソンという選手を育てた。彼らは世界選手権のダブルス、シングルスのチャンピオンとなった。

アルセア選手と荻村コーチ

ワルドナーらスウェーデンの黄金世代が1980年代に台頭するまで、彼らは国内のトッププレイヤーであり、指導者であった。ワルドナーは今でこそ誰もが知る伝説的な卓球選手であるが、少年時代のワルドナーにとっての「アイドル」はベンクソンだった。

荻村の指導法は、基礎技術の練習に重きをおいていた。国内チームを指導する際は「カット打ち千本ノーミス」、「シャドープレー」など、規則的な動きを重視した練習が多かった。

また、自身が取り入れた体力トレーニングを海外の合宿でも進めた。当時の卓球の練習に体力トレーニングを取り入れている国は少なく、耐えかねて次々に選手が合宿から離脱していったこともあった。

しかし、スウェーデンで行った合宿では、一人合宿に残ったアルセア選手が後に国内大会で次々と格上選手を破っていくと、やがて荻村の指導を仰ぎたいという人が増えていった。

クラブスポーツからトッププレイヤーを

また、国内では「青卓会」という卓球クラブを作り、クラブスポーツの中から世界に通用する選手を育てようとした。Jリーグが発足する何十年も前から、欧州のようにクラブスポーツの中から選手育成が出来ないかを考えていた。

海外のクラブスポーツを見る中で、学校教育の中でスポーツの強化育成を行うのは限界があるのではないか、と荻村は考えていたからだ。

スウェーデンには、「ファルケンベリ」、「スパルバーゲン」といったクラブがあり、ワルドナーらはそこで腕を磨いてきた。また、ドイツには、「ボルシア・デュッセルドルフ」という男子卓球のチームがある。かつて、ボルやオフチャロフという世界ランク10位以内の選手を輩出している。

海外ではクラブスポーツから優秀な選手が輩出されている

今では、数多くの卓球クラブが日本各地にあるが、まだまだ全国で強豪の高校や大学から強い選手が輩出されていることには変わりない。

「日本を代表するようなスポーツ選手が育つ場とする」ということをクラブビジョンの中に掲げているクラブもあるが、なかなか日本代表となるような選手を育てることは難しい。

大学を卒業してから、多くの選手は実業団でプレーしてきたが、撤退する企業も多く、社会人になってもトッププレイヤーとして活躍する選手はほんの一握りだ。プロアマ混合のTリーグが開設されることで、この状況が改善されることが期待されているが、一部の卓球ファンは「この時代に荻村が生きていたらどんなリーグを創設しただろう?」と夢を膨らませている。

卓球をメジャーにしよう

また、荻村は卓球をより広く普及する為に、卓球がどんなスポーツであるべきかを深く考えていた。

荻村がITTFの会長になった1980年代後半は、テレビがメディアとして最も勢いを持っていた頃だ。地味で単調だというイメージを持たれていた卓球をテレビにどうしたら面白く、かっこいいものとして映るかを荻村は考えていた。

今、卓球の試合会場は床がワインレッド、ボールの色はホワイトかオレンジ、卓球台は青が基調になっているが、当時の日本卓球協会が中心となって考えていたものだった。

Borussia Düsseldorf 3:2 TTF Ochsenhausen

卓球がメジャースポーツになるにつれ、今の卓球台、床の色に変わった。

また、競技スポーツだけでなく、生涯スポーツとして卓球を普及させる為に、荻村が中心となって「ラージボール」という競技が考案された。より大きな球を使い、スピードや回転を落として、高齢者でも楽しめる在り方として「ラージボール」という競技が生まれたことは大きかった。

11点制、40ミリボール、有機溶剤を使った接着剤の禁止など、今では当たり前になった卓球ルールも、生前に荻村が考えたアイデアだったという。

テイカーがギバーになるきっかけとなった「おばさん」

ところで「GIVE and TAKE」(アダム・グラント著 楠木 建監訳 三笠書房)という本がある。ここには三種類の人間がいると分析している。

ギバー…人に惜しみなく与える人
テイカー…真っ先に自分の利益を優先させる人
マッチャー…損得のバランスを考える人

天才は自分自身の才能を追求することに専念する為に、他人を顧みないテイカーになる傾向が高く、生涯を通じてテイカーでいる場合があることが、同書で紹介されている。

荻村に関する書籍を読むと、元々はテイカーだったのではないかと思う。

結婚したての頃に、妻と混合ダブルスで世界に出ることを夢見て、音をあげるまで妻にスパルタ練習を課していた話や、日本代表合宿で真夜中に突然選手を呼び出して練習をさせるなど、目的達成のために手段を選ばなかったというエピソードが「ピンポンさん」で数多く紹介されている。

何故テイカーがギバーになれたのだろうか?それは、荻村が高校生だった頃から卓球を続けるのをずっと見てきた「おばさん」がいたからだろう。「ピンポンさん」の本を読むと、荻村にとって、「おばさん」と呼んで慕ってきた上原久枝さんという方の存在が大きかったことが分かる。

「おばさん」は、荻村が高校生の頃から武蔵野卓球場を運営していた

卓球という競技は、プレースタイルがその人の性格を表しす。その表現の仕方は人によって千差万別であり、誰にとってもかけがえのないものだ。荻村は、卓球を通じた人とのつながりを愛し、一人の競技選手としての枠を大きく越えて、スポーツとしての卓球の価値を高め世界に広げていった。

今、卓球が再び盛んになっている。

今後、卓球は荻村が思い描いたように発展をし、スポーツとしての価値を高めていけるのだろうか。

残された我々は荻村伊智朗という偉大な人物のことを知り、遺志を継ぎ、卓球を発展させる責任があるように思う。

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