取材・文:川嶋弘文(ラリーズ編集部) 編集:槌谷昭人(ラリーズ編集長)
今年1月、宮城県仙台市出身の卓球選手、張本智和(木下グループ)は「2011.3.11 僕にとって忘れることのできない1日」から始まる約190文字のメッセージを自身のSNSに投稿した。
故郷の東北を想い、被災地へ花束を贈るクラウドファンディングへの支援をファンに呼びかけたのだ。
2011.3.11
僕にとって忘れることのできない1日。あっという間に年月は過ぎて、東日本大震災から今年で10年を迎えます。
あまりにもつらい記憶ですが、だからこそ決して忘れさせてはいけない、特別で大切な1日です。この節目の年に、被災地沿岸部へ花束を贈るというプロジェクトがあると聞き、
— 張本智和 Harimoto Tomokazu (@ktbMh4Ou53hEvzR) January 25, 2021
1000年に一度と言われた未曾有の東日本大震災から10年。17歳となった卓球界の若き至宝は今、何を思うのか。本人に話を聞いた。
このページの目次
7歳で被災したあの日
写真:宮城県の被災の様子/提供:Chris Steele-Perkins/Magnum Photos/アフロ
2011年3月11日午後2時46分。震度6強。当時7歳で小学1年生だった張本は“あのとき”が今でも忘れられない。
「はっきり覚えていますね。学校から帰ったばかりで宿題をやろうとしていた時間に地震が来て。最初は机に隠れていたんですけどひどくなって。トイレに行って、揺れが収まってから近所の公園に避難しました」。
この日の仙台市の最低気温は氷点下2.5度。電気も水道も止まり、寝泊まりしたのは「車の中」だった。「3月で雪はもう降らない時期だったんですけど、急にその日だけ雪が降ってきて。大地震が来ると天気も変わるんだなというのを覚えています」。
福島原発事故の影響を重く見た中国大使館の呼びかけに応じる形で、家族と共に父・宇さんの故郷、四川省に避難した。「卓球の練習はほぼしてないです。父の実家で宿題をして過ごしていて。でも、着いたときから日本に帰りたいなと思ってました。みんなに会いたい。学校の友達、卓球の友達に会いたいなと」。
写真:幼少期、国際大会でプレーする張本智和/提供:ittfworld
約1ヶ月後に故郷の仙台に戻ると、張本が通う東宮城野小には沿岸部で被災した荒浜小の生徒も通っていた。「(荒浜小の生徒とは)教室は別々だったんですけど、体育とか校外学習では授業が一緒でした。休み時間も遊んで仲良くなって」。張本の通う小学校からわずか6キロほどの距離にあった荒浜地区は、津波が全てをのみ込み、犠牲者は180人以上にのぼっていた。
あまりに身近なところに発生した大震災とその後の暮らしは、それからの張本を貫くある決意を抱かせる。
「震災が来て津波で亡くなられた方がたくさんいる中で、いつ自分がそうなってもおかしくなかった。だからこそ、今の卓球や日々の生活に、全力で取り組まなきゃいけない」。
写真:常に全力で卓球に取り組む張本智和(木下グループ)/提供:ittfworld
“愛ちゃんのメダル”と“楽天日本一”
震災直後とその翌年の計2回、仙台出身の福原愛さんが張本の通う東宮城野小を訪問してくれた。被災地を元気づけるためだ。
二度目の訪問は、卓球界初のオリンピックのメダル(ロンドン五輪女子団体銀)をひっさげての登場だった。「全校生徒の前で、一緒に卓球をさせて頂いて、今でもいい思い出になってます。メダルを触らせてもらったら本当に大きくて重くて。そこで、東京(五輪)でメダルを獲りたいとはっきり思うようになりました」。
写真:ロンドン五輪銀メダル獲得の日本女子卓球チーム。中央が福原愛さん/提供:YUTAKA/アフロスポーツ
また、その翌年の2013年。張本にとって嬉しい出来事があった。地元のプロ野球チーム、東北楽天ゴールデンイーグルスが球団創設9年目にして初の日本一になったのだ。震災復興の象徴に、東北は沸いた。
写真:楽天イーグルス復帰を決めた田中将大/提供:AP/アフロ
田中将大が巨人を抑えて優勝した瞬間を「遠征先の旅館で試合をテレビで見ていた」という張本自身もその姿にエネルギーをもらい、スポーツが持つ底力を実感した。
写真:2018年12月にITTFグランドツアーファイナルを制した張本智和(木下グループ)。この活躍で世界ランク3位に入った/提供:ittfworld
その後、張本は破竹の勢いでトップアスリートの仲間入りを果たすことになる。
14歳で全日本選手権の男子シングルスを制し、史上最年少で日本一になると、15歳で日本人初となる世界ランクトップ3入りを果たした。
17歳となった昨年も、東京五輪延期後の難しい調整期間を乗り越え、男子W杯で銅メダルを獲得した。
地元からの声援「仙台の張本頑張れ」
写真:2019年12月、仙台で行われたジャパントップ12で2連覇を達成した張本智和(木下グループ)/撮影:ラリーズ編集部
地元・仙台の声援はいまも張本の耳に響いている。
「震災の後、仙台での大会も増えるようになりました。会場に見に来てくれる方も、見に来れないけど応援してくれる方もいるんですけど、地元の方たちの『頑張れ』は重みが違う。ただ試合に勝って欲しい頑張れではなくて、『震災を忘れずに頑張れ』だったり、『皆さんに忘れさせないためにも仙台の張本が頑張れ』というのをすごく感じます」。
被災地の10年は、張本が世界一の高みを目指して戦い続けた10年でもあった。どちらもまだ途上だ。
「10年も時間が経つと少しずつ震災のことを忘れてしまう方も多いし、自分でもどうしても当時のことを忘れてしまうこともある。自分にできることは試合で結果を出して、インタビューなど公の場で3.11のことを言えるのが一番いいこと。そして言葉に出さなくても、自分を見るだけで当時のことを思い出させられるような、そんな大きい選手になりたい」。
写真:2019年仙台開催のトップ12で優勝し会見に臨む張本智和(木下グループ)/撮影:ラリーズ編集部
「今は医療従事者の方が世界で一番頑張っている」
写真:今年に入りTリーグで5勝0敗の好成績を収める張本智和(木下グループ)/提供:©KINOSHITA MEISTER TOKYO
コロナ禍で東京五輪を含む多くの大会が延期や中止となったこの一年、張本は他の選手よりも深く葛藤しているように見えた。
「プレーだけすればいいわけじゃないってことをコロナ禍で改めて感じました。こういう時にスポーツ選手は何もできないなと」。
スポーツの存在意義についても「もちろんスポーツがあった方が人生は楽しくなる」と前置きしたうえで「最悪スポーツが無くても人は生きていける。今は医療従事者の方が世界で一番頑張っていらして、一番感謝されるべき方々です。その重みはこの期間で感じました」。
原体験にある東日本大震災から10年。張本はこの一年で、“勝負が全てだった”これまでとは、少し違う考えを持つようになったと言う。
「今までは何が何でも勝ちたい、どんな時でも負けたくないとしか考えていなかった。でも、コロナ禍でしたいことができないこともある。勝ちたくても勝てない時もある。何でも自分の思い通りにはいかないということを受け入れて、やっています」。
WASURENAI3.11を胸に
写真:張本智和(木下グループ)の胸にはWASURENAI3.11のロゴが入っている/提供:ittfworld
現在、張本が国際大会で着るウェアには“WASURENAI3.11”のロゴが入っている。2011年の震災直後から10年、福原愛さんの頃から卓球日本代表チームがずっと胸につけて戦ってきた伝統のメッセージだ。「毎年新しいユニフォームが支給されるときに必ずそこを見て、自分も忘れないように、世の中に忘れさせないようにと思ってます」。
この10年、あのとき胸に描いた未来に向かって張本は走り続けた。「一番は今年東京(五輪)で金メダルを取ること。その後の長いプランでは21歳、25歳、29歳の時にオリンピックが来るので一度は絶対金メダル。そこが最低目標。全力で結果を残したいという気持ちでやっています」。
写真:張本智和(木下グループ)/提供:ittfworld
日本卓球の未来を担う17歳は、その背に多くのものを背負う。
若くしてトップアスリートになるということは、その分だけ長く社会の変化をその身に受けながら戦うことでもある。
「プレーで恩返しするのが9割。でもそれ以外での発信も大事だとわかってきました。水谷選手、吉村選手など、他のプロ選手と比べてまだまだ自分はできていない。大人になっていくにつれて自分なりに発信が出来たらいいと思います」。
見るたびにたくましくなる張本智和。
忘れない、忘れられない被災地と張本の3.11が、今年もやってくる。
張本智和が呼び掛けた「絆JAPANプロジェクト」
僕も想いを花束にかえて届けたいと思います💐
僕の故郷・東北がたくさんの花と笑顔でいっぱいになりますように✨https://t.co/dKYM3lGMpE#絆JAPANプロジェクト#東北に笑顔を咲かせよう#東日本大震災を忘れない
— 張本智和 Harimoto Tomokazu (@ktbMh4Ou53hEvzR) January 25, 2021