文:武田鼎(ラリーズ編集部)
Tリーグの人気球団・琉球アスティーダでひときわ大きな声でチームを鼓舞する男がいる。松平賢二だ。名門・青森山田中高を卒業し、日本リーグの名門・協和発酵キリンで好成績を残しながらTリーグにも籍を置く。若手の台頭著しい卓球界にあって、29歳の松平はベテランの域にさしかかる。さらに琉球アスティーダの中では強豪が居並ぶ。リオ五輪メダリストの丹羽孝希にダブルス世界王者の台湾の荘智淵・陳建安ペア。知名度抜群の福原愛さんの夫の江宏傑もいる。
だが10月24日のTリーグの開会式にチームを代表して登場したのは松平だった。同じ舞台には木下マイスター東京・水谷隼の姿。この同期の2人は腐れ縁と言ってもいい間柄だ。だが、歩んできた道は正反対だった。松平賢二、この男の卓球の歴史は水谷との比較の歴史でもあった。
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卓球一家に生まれて
松平家は石川県では言わずとしれた卓球一家だった。賢二には弟・健太(木下マイスター東京)と妹・志穂(日本ペイントマレッツ)がいることは有名だが、もう一人、2歳上の兄・敏史がいる。ラケットを握ったのも兄の影響だった。「兄ちゃんの真似をずーっとしてて。両親が共働きで、店をやっていたから、幼稚園とか終わっても家じゃなくてお店に自動的に行ってた。まあ卓球場が遊び場でしたね」。3台の卓球台が置かれたプレハブ小屋が賢二にとっての庭だった。
賢二の最初の目的は兄に勝つことだった。「でも、勝てなかった。今は兄ちゃんは卓球選手じゃないですが、一応石川県でもかなり強かったんですよ」。
幼少期の練習環境は最高に恵まれていた。両親の店の従業員に2人、県チャンピオンがいたのだ。「まず兄ちゃんを倒すためには、この人たちに練習してもらわないといけない。でも生徒は12、3人いて、大体1台を4人一組でローテーションする。その時のルールが2球交代で、ミスしたら終わり。だからまず先生相手にミスしないように打つのが精一杯で」と振り返る。
着々と技術面で向上を見せる松平4きょうだい。勝負所に強い精神力は父親に鍛えられた。父の話に水を向けると「父ですか…。父は怖かったなぁ…」と感慨深げに漏らす。「健太とか、いっつも泣いてましたもん。健太はびびりすぎて、試合のとき1球ずつ絶対ベンチ見るんすよ、もう。入っても入んなくても(笑)。入ってるのに『大丈夫かな…』みたいな感じでずーっと見てんすよ」と思い出したように笑う。
今でこそ、自身の肉体をSNS披露する“肉体派”だが、小学生当時は意外にも“ぽっちゃり系”だった。
【松平賢二をどうぞよろしく!】こちらアスティーダへ正式に加入してくれました!琉球そして、Tリーグを盛り上げる松平賢二選手です!#松平賢二 #荘智淵 #陳建安 #江宏傑 #琉球アスティーダ #Tリーグ #早川周作 #沖縄 #那覇 #卓球 #丹羽孝希 #沖縄 #那覇 #国際通り #宜野湾 #松平健太 pic.twitter.com/S1NeA9Slzw
— 琉球アスティーダ【Tリーグ】公式 (@ryukyuasteeda) 2018年8月29日
「それが中学校になって身長伸びてスーって痩せた。特別なことは別にやってなくて。中学校のときはランニングして、筋トレとかもしなかったですし、高校入って青森山田に行ってからは筋トレとかの器具あったんで、ただ、何も知識ないままベンチプレスとかスクワットばかりやっていました」と肉体の変化を語る。
天才・水谷隼が同級生
話を幼少期に戻そう。兄弟たちで切磋琢磨するうちに石川県では有数のプレーヤーになっていた。「このまま勢いに乗って全国で名を轟かせる」と思っていたが、同い年に巨大過ぎる壁が立ちはだかる。水谷隼だ。
写真:伊藤圭
「隼は強かった!昔から違いました。僕も勝てなかった。僕だけじゃない。同じカテゴリーだと同年代では負けたことはないんじゃないのかな…」。だが、「たった2回だけ勝った記憶」があるという。「隼に勝ったのは少ないから(笑)。鮮明に覚えてる。全日本カデット(中学校2年生以下の部)の準決勝の時に初めて勝って。むちゃくちゃ嬉しくて。『これは優勝できる!』とか思ったら決勝で笠原(弘光・現協和発酵キリン)に負けて。あの決勝での負けはヘコみましたね…。『もう一生優勝できないわ』って思わされちゃいました」と幼少期の戦績を振り返る。
水谷とはその後、青森山田で同期として卓球部に入部、ダブルスペアを組み、インターハイに出場することになることなど当時の松平少年はまだ知らなかった。
撮影地:協和発酵キリン卓球場