【吉田雅己#4】丹羽のいぬ間に必死に全国制覇、消えないモヤモヤ | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:吉田雅己/撮影:伊藤圭

卓球×インタビュー 【吉田雅己#4】丹羽のいぬ間に必死に全国制覇、消えないモヤモヤ

2018.09.06

文:武田鼎(ラリーズ編集部)

名門・青森山田で丹羽孝希・町飛鳥らとともに「3枚看板」として鳴り物入りで入部した吉田。青森山田の独特の校風に揉まれ、中高6年間で自らの卓球に磨きをかけていく。

「青森山田は強豪校なんですが、理不尽な体育会系ではなく、はっきりとした実力主義」と吉田は振り返る。それを痛感した出来事があった。

「1学年上の先輩でも卓球の力がないと『なんで掃除しないんだ』って叱られる。掃除なんて一番年下がやればいいじゃないですか。でも、そうじゃないのは驚きました」。強くなれば認められるシンプルな世界は、吉田にとって心地良かった。

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写真:吉田雅己/撮影:伊藤圭

そこで力をつけた吉田は中3の全中で優勝を果たす。無論、輝かしい戦績だが「実は、このとき丹羽はいなかったんです」と明かす。それは高3のインターハイでも同様だった。「丹羽はロンドン五輪に出てたんです。『おっ、じゃあ俺チャンスあるじゃん』って思って。死に物狂いで頑張って優勝したんですよ」。

6年間を通して日本一の栄冠を2度手にしたが、その称号にはこんな“但し書き”がついている。「なお、この大会には丹羽は出場していない」と。

「そりゃあ全国1位は嬉しいですけど、そのときアイツは世界に行っていますからね」。強敵をなぎ倒して掴み取った実感は最後までなかった。

吉村真晴が立ちはだかる

その後、吉田は愛知工業大学へと進む。「実力主義で6年間育ったので、『卓球強けりゃいいだろ』くらいの気持ちだったんですが、大学に入ったら全然違って。最初は慣れませんでした」。違うのは校風だけではなかった。愛工大には巨大な壁がいた。後にリオ五輪で銀メダルを取る吉村真晴だ。

吉村は、水谷隼に続く2人目の、高校生で全日本選手権を制した猛者だ。自信もキャリアも脂が乗っている。

下手なところは見せられない先輩とインターハイ制覇の生意気な新入り。食い合わせがいいわけない。案の定「入学してから馴染むまでには相当時間がかかった」のだという。「一緒に練習はあまりしなかったですが、ずっと意識してましたね。監督もなるべく一緒に練習させないようにしていたと思います」と振り返る。

とは言え、尖ってばかりもいられない。吉田が変わらなければ現在のキャリアはなかったはずだ。大学時代、吉田は大きな2つの転機を迎える。

最初の転換点が2014年末に行われた2015年の世界選手権に向けた代表選考試合である。吉田は、当時の自身の胸中をこう明かす。「俺っていつも中途半端な試合をしている。ここで変わらないと…」。愛工大の鬼頭明監督にも打ち明けた。「俺、ここで頑張りたいです」。そこから鬼頭監督は出場する全選手のデータを収集し戦術を分析、吉田とのマンツーマン練習に日々、遅くまで付き合った。


写真:吉田雅己/撮影:伊藤圭

「これまでにないほど追い込んで臨んだ」というこの大会で、気まぐれな卓球の神様は吉田に微笑んだ。吉田は松平健太と吉村真晴ら、強豪ひしめく予選ブロックを1位で通過。決勝トーナメントでは大島祐哉との壮絶なラリー戦を制し、松平健太との決勝戦へ。

青森山田に入学したての頃は、3学年上の松平健太は見上げるような存在だった。その松平をゲームカウント4−1で下し、優勝。世界卓球の代表に内定したのだ。今までの勝利とは違い、強敵をなぎ倒して勝ち取った代表の座だった。

「自分に自信を取り戻しただけじゃない。他の人に勇気を与えられたと思う。本当に努力して練習して集中すれば誰にだって可能性はあるんですから」

そしてもう一つの転機は2016年に訪れる。あの「偉大な先輩」水谷隼から“指名”されたのだ。(第5回に続く)

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