卓球×インタビュー 【#4森薗美月】「卓球だけやとあかんで」恩師・作馬氏との出会い。卓球の表舞台へ返り咲く
2018.07.07
取材・文:佐藤俊(スポーツライター)、写真:伊藤圭
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リハビリは「成長のチャンス」
高2の1月、森薗美月は右足に大きな怪我を負った。
右アキレス腱の部分断裂、さらに肉離れも起こしていた。早期回復を目指すのであれば外科手術という選択もあった。しかし、父が以前、アキレス腱を手術した後、痺れが残ったという話や手術箇所が硬くなってしまう話を耳にし、固定による保存治療を選んだ。目指すは5月から復帰だ。アスリートにとっては怪我からの復帰は「我慢の時間」に他ならない。だが、森薗は「成長のチャンス」と捉えていた。
「長いリハビリは、いろんなことを吸収する時間になりました」
フィジカルトレーニングで体幹を鍛え、メンタルトレーナーに話を聞きに行った。卓球を学ぶためにYouTubeで試合を観て、研究した。さらに、イチロー語録などトップアスリートの言葉を渉猟し、自分磨きに時間をかけた。中でも、一番の収穫は、森薗の“卓球観”を根本的に変えてくれる出会いがあったことだ。
>>森薗美月のインタビュー#1はこちら
>>森薗美月のインタビュー#2はこちら
>>森薗美月のインタビュー#3はこちら
卓球台での練習が再開できるようになると森薗は「王子卓球センター」を訪れるようになった。本来は高校から40分ほどの距離にあるミキハウスの練習場でトップ選手たちと一緒にトレーニングすることになっているが、森薗は回復直後ということもあり、王子に行くことにした。そこで運命的な出会いを果たす。
「王子サーブ」の生みの親として名高い作馬六郎コーチがいたのだ。
恩師・作馬六郎コーチとの出会い。理解できなかった「卓球だけやとあかんで」
当時の作馬は青果店を経営しながらコーチ業を続けていた。独自の視点で選手と向き合ってきた老練な作馬の目に、森薗は思い詰めた表情をした繊細な少女に見えたのだろう。
「美月ちゃん、卓球だけやとあかんで」
作馬は、硬い表情の森薗にそう声をかけた。
いきなりストレートパンチを喰らった森薗は、憮然として反論した。
「なんでなん?なんであかんの?」
「卓球を30歳でやめたとして、80歳まで生きるとまだ50年もあるんやで。そっちの人生の方が大事やん。卓球で負けても死なへん。今、やるべきことをやったらええやん」
最初は作馬の言葉が森薗に刺さることはなかった。
それから練習場で顔を合わせる度に「卓球だけやとあかん」と言われ続けた。すると徐々にその言葉が心に浸透してきた。家業の青果店から果物を持って来て「美月ちゃん、果物食べるか~」と声を掛けられると思わず頬が緩んだ。
「美月ちゃん、ギリギリまで頑張って、それで勝てればいいけど勝ててへんやん。苦しいやろ?卓球は楽しくやらなあかんで」
競技を楽しむ。それはスポーツに限らず、物事を続けていくためには最も大事な内発的動機付けだ。だが、当時の森薗は違った。
「卓球は常に勝たないといけないって思っていました。勝つことが最優先で『楽しむ』という考えは頭の中にありませんでした」
作馬に言われてから「楽しむ」という言葉がずっと引っかかった。
やがて作馬と親交を深めるに連れ「卓球だけやとあかんで」という言葉が、ストンと体の中に落ちてきた。
卓球一筋だった彼女の中に違う何かが芽生えた瞬間だった。
「作馬さんに会うまでの自分は卓球がすべて。負けたらこの世の終わり、勝てない自分がダメなんだと自分を責めていた。人と人のつながりよりも自分は卓球さえうまくいけばいいんだって。でも、作馬さんに『卓球だけやとあかん』と言われて気持ちがラクになって、楽しむという一番大事なことに気付かされました。作馬さんに会って自分の卓球観が180度変わったんです」
それまでは勝つことにしか興味がなく、鬼気迫る表情で卓球をしていた。だが、卓球に負けても死にはしないと思うと気持ちがラクになり、余裕を持ってプレーできた。すると表情が変わり、みんなから「表情が柔らかくなったね」と言われるようになった。
「怪我の功名でしたね」
森薗は、そう笑う。
作馬と出会い、一皮剥けた森薗は、再び卓球の表舞台を走り始めた。
「卓球だけの自分」からの卒業。森薗美月、卓球の表舞台へ返り咲き
高3のインターハイではシングルスはベスト16、ダブルスでは準優勝を果たした。高校最後の全日本卓球選手権ではシングルスは3回戦で小鉢友里恵に敗退。しかし、阿部愛莉と組んだダブルスでは決勝まで破竹の勢いで勝ち上がり、石川佳純、平野早矢香ペアと対戦。ロンドン五輪銀メダルの強豪ペアに臆することなく戦い、3-2で敗れたが自身の成長を実感できた。
「怪我するまでの私は自分が何者なのか、ずっと探している状態だったんです。でも、あの怪我があって自分は自分であるし、その自分を応援してくれる人たちに結果を出して感謝の気持ちを伝えることが自分の役割だと思えたんです。実際、ダブルスで2位になった時、周囲の人がすごく喜んでくれて、それが本当に嬉しかった。大嶋(雅盛)監督が『人に感謝しろ』とよく言っていたんですが、その意味がようやく分かりました」
小1から本格的に卓球を始めてから12年間、高校卒業と同時に森薗は「卓球だけの自分」から卒業した。長い間、探し続けてきた自分だが、苦しかった自分も自分の姿だった。苦しかったから大きく変われたのだ。人は心の痛みや苦しみがなければ、変化を求めようとしない。
紆余曲折の高校時代を経て、卒業後は実業団へと歩みを進める。門を叩いたのは父・稔がかつてプレーしたサンリツだった。
>>【#5森薗美月】後悔しないためのプロ転向、その先へ。新生・森薗は2020年を夢に見る
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