【及川瑞基が歩んできた道#3】“卓球星人の巣窟“青森山田へ 「及川やんけ」声かけてくれたムードメーカー


*写真:13歳の時に、全日本カデットの部を制した及川瑞基(専修大学)/写真提供:及川瑞基

小学校6年生のある日、練習しているときに一本の電話が「仙台ジュニア」の狭間さんにところにかかってくる。

狭間さんは電話を切ると僕にこう伝えた。「及川、板垣さんが『青森山田に来ないか』って。どうする?」。イタガキサン…?小6の僕の頭の中に「板垣さん」は一人しかいない。青森山田学園卓球部の板垣孝司監督だ。いきなり降ってきた青森山田への切符。「卓球王国でみたことある人だ…」。そんなことを考えていた。

もちろん青森山田と言えば名門中の名門だ。行きたくないわけがない。でも不安の方が大きかった。そんなとき思い出すのが卓球場からの帰り道での風景だ。練習がきつかった日、試合で負けた日、丘の上にある地元の公立中学校への道が見える。ふさぎ込む僕に対して母は「卓球を辞めて公立へ行ってもいいんだよ」と声をかける。天の邪鬼な僕はそのたびに「絶対に公立には行かない」と突っぱね続けてきた。憧れ続けた青森山田への切符が舞い込んできたのだ。ならそれを掴まない手はない。


板垣さんからは中学入学前に一度練習に来るように言われた。青森駅に迎えに来てくれた板垣さんの車に乗り込む。「青森山田はね、自由な学校だよ。だから自分たちで強くなるように考えるんだ」。色々と話しをされたけど、当時の僕はそれしか覚えていない。なにせ向かう先は中学生から大学生の”卓球星人”たちの巣窟だ。かたや僕は小学6年生、坊主頭の卓球小僧にたちとって、これほど怖いことはない。

練習場に入って圧倒された。体育館に所狭しと並ぶ卓球台、そこで憧れの選手たちが卓球をしている。当時の青森山田は綺羅星のようなスター選手が揃っていた。2年上には森薗政崇さんがいて、さらにその上の高校1年生の代には丹羽孝希さん、町飛鳥さん、吉田雅己さんという青森山田最強の時代を築いた3枚看板がいたのだ。吉田先生は怖い顔をして笛を吹いている。フットワークもドライブも小学生の大会とはもちろん桁違いだ。僕が足を踏み入れようとしている場所は、紛れもなく日本最強の卓球道場なのだ。どうしたものか…。びくびくしたまま青森山田の雰囲気にただただ圧倒されていた。

その日の練習で一番よく覚えているのは松平賢二さんだ。当時青森大学生の松平さんが大きな声で挨拶をしながら入ってくると練習場の雰囲気が一変した。小学6年生の僕にとって大学生の賢二さんはまさに大人と子ども。驚いたのは練習後のことだ。階段を降りてくる賢二さんがすれ違いざまに「お、及川やんけ」と声をかけてくれたことだ。「大学生なのに小学生の僕のことを知ってるのか…」と嬉しさはあったのだが、実は内心ちょっと怖かったのはナイショだ。

晴れて青森山田行きを決めた僕を待っていたのは寮生活だ。生活拠点を宮城から青森に移し、寮生活となった。新入りは僕、三部、一ノ瀬、高橋の4人。当時は何をするのも怖くて4人で行動していた。寮では1部屋につき、2人のため、誰かと相部屋になることになる。

誰と一緒の部屋になるのか少し緊張気味に待ち受けていると板垣監督が

「及川は三部と相部屋だ。よろしく頼むよ。」

と指名するものだから意外や意外。

こうして小さい頃から度々対戦していた三部との相部屋生活が始まることになった。

*次回は12月1日(土)20時に配信予定。

文:及川瑞基

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