9連覇逃した卓球インターハイ 絶望の敗北から三部航平が得たもの | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

卓球×インタビュー 9連覇逃した卓球インターハイ 絶望の敗北から三部航平が得たもの

2019.12.17

大学卓球界でひときわ輝いている選手がいる。専修大学で同じ4年生の及川瑞基と“ダブルエース”を張る、三部航平だ。

その端正な顔立ちと、自然体で飾り気のない人となりは、人を惹きつける魅力にあふれている。

2014年チリOPシングルス優勝、2015年インターハイシングルスでも頂点に輝くなど、国内外で数多くの実績を積み重ねてきた。

今回は、そんな“爽やかな若武者”の卓球人生にスポットを当てる

>>“エース依存”から“全員が殊勲賞”へ 専修大学卓球部がリーグ制覇できたワケ

一気に全国レベルに駆け上がった順風満帆な少年時代


写真:少年時代を語る三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

山形にある高校の卓球部で指導者をしている父を持ち、4つ上の兄もプレーヤーという卓球一家で育った三部。小1からラケットを握り、地元の卓球クラブで練習漬けの毎日を送っていた。

小学2年時には頭角を現し、バンビの部で県大会優勝。翌年からは全国の常連となり、一気に実力が開花した。身近に全国レベルの左右田颯斗(現・TACTIVEスタッフ)という目標とする選手がいたことも三部にとっては大きく、左右田の背中を追いかけることで、自然と全国へ駆け上がることができたという。

三部自身も「伸び悩んだ時期はなかった」と少年時代を振り返る。

“全国王者”三部、名門・青森山田中へ


写真:三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

小6で初の全国大会優勝を飾り、翌年には“全国王者”という肩書を引っさげて、名門・青森山田中学に入学。「青森山田の選手はみんな自分で考えていて、自立していて驚いた」と当時を振り返る。

「青森山田は鬼のように練習していると思われがちですが、実はそうでもない。強制的に長時間練習をさせるのではなく、選手の自主性を重視して自由にやらせるところがある。卓球好きが集まっているので、意欲的に『何をするべきか』を考えて、自ら練習を始めるんです。追い込まれるというより、自分で勝手に追い込んじゃう、みたいな(笑)」。

そういった環境に身を置くことで、自然と“自分で考える力”が養われ、将来的にプロで活躍できる自立した選手が生まれていく。これが、青森山田の名門たる所以(ゆえん)なのだろう。


写真:三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

三部自身も「考える卓球」でさらに実力が向上。2012年全国中学校大会で2冠、2013年全日本選手権大会ジュニアの部でも準優勝に輝くなど、学生卓球界で一躍注目を集める選手へと成長した。

「年上の全国レベルの選手に勝てるようになって、自分が強くなってる実感を得られました。卓球に対するモチベーションが上がっていきましたね」。

大きな壁にぶち当たることもなく、まさに順風満帆な卓球人生を送ってきた三部。しかし、高校入学後、彼のキャリアにとって初の苦難に直面することになる。

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“本当の敗北”から得た「勝つこと」に対する執念


写真:三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

青森山田高校へ進学した三部。順調なスタートを切り、1年生にしてレギュラーを掴み取った。

だが2013年、福岡・希望が丘高校とのインターハイ決勝戦、2-2で回ってきた5番手の三部は、上村慶哉(現・シチズン時計)を相手にフルゲームの末に敗北を喫した。チームも敗れ、青森山田のインターハイ連覇が8でストップ。卓球人生で初めての絶望を味わった。

「本当にヘコみました…。中高合わせて一番落ち込んだ負けだったと思います。高校に入って団体戦の人数が4人(中学は6人)に変わったことで、より青森山田を背負うプレッシャーが重くのしかかってきて。もう負けたら死ぬぐらいの気持ちでした」。

中学時代も強豪校だからこその重圧は感じていた。初めは相手に向かっていく気持ちが上回り、自分の卓球に徹することができた。しかし、全国屈指のプレーヤーとして名を馳せた三部でも、次第に重圧に飲み込まれた。

それでも“本当の敗北”を知った三部は、大会後、自身の気持ちの変化を感じ取ったという。


写真:三部航平(専修大学)/撮影:佐藤主祥

「2013年のインターハイで、優勝する大変さ、勝つことの難しさを身にしみて感じて。それ以降、団体戦・シングルス・ダブルス、全てにおいて『絶対に負けたくない』という想いが強くなっていったんです」。

誰しも敗北を望むことはない。だが、次なるステップの為に敗北というプロセスを通過することは重要な意味を持つ。高校1年時のインターハイ決勝で喫した1敗は、その後の三部を飛躍させる大きな「財産」となったことだろう。

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絶望を乗り越え掴んだ「全日本ダブルス2連覇」の称号

三部はその後、2015年の全日本選手権大会男子ダブルスで青森山田高の先輩・森薗政崇(現・Tリーグ、岡山リベッツ)とのペアで2連覇を果たすなど、その凄みを増していった。


写真:2015年全日本選手権ダブルスを制した森薗・三部ペア/提供:アフロスポーツ

ダブルスでの全国制覇の瞬間は「衝撃でした」と驚きの表情。

その理由を問うと、三部は「試合より、森薗さんに対するプレッシャーの方が強くて。だから大会中はずっと気を抜けない。それがうまく噛み合った感じはしましたね。森薗さんと組むことで集中力が増し、隙がなくなった。森薗さんの指示や作戦を遂行することに徹底していたんです。そんな感じで全試合頑張っていたら優勝していた(笑)。だから本当に実感がないんですよ」。

高校1年時のインターハイで立ち直れないほどの敗北を味わった。だがそれを乗り越え、三部は全日本でダブルス優勝できるほどの選手へと成長した。

青森山田高を卒業後、田添健汰(現・Tリーグ、木下マイスター東京)からの誘いや専修大男子卓球部・高宮啓監督からの熱烈なオファーも実を結び、三部は専修大学へ進学を決める。

青森山田時代に培った「勝利への執念」を胸に、“真の強さ”を求めて新たなステージに飛び込んでいった三部。しかし、大学2年時のある時「このままだと卓球人生終わるかも…」とまで追い込まれるほどの新たな苦悩が、彼を待ち受けていた。

「卓球人生終わるかも…」イップスの呪縛を経て見出した新たな挑戦<三部航平#2>へ続く)