1984年生まれ。元卓球メーカー勤務。2020東京オリンピック卓球競技ベニューフォトマネージャー、パリ20204オリンピックITTFオフィシャルフォトグラファー。みなさまに必要と信頼をされ、興味を持ってもらえるコンテンツを。好き:サッカー観戦(特にRealMadrid)、中日ドラゴンズ、競馬、釣り、ゴルフ
「もしパリでメダルを取れていたら、競技人生を終えていたかもしれない」
いま、清々しい表情で振り返るのは、パリ・パラリンピック卓球競技に出場した七野一輝(オカムラ)。
二分脊椎という障がいを抱え、下半身に障がいがある。
クラッチ(杖)を使っての卓球から、2年前、怪我をきっかけに車椅子卓球に転向する。
パリでの悔しさと、そこから新たな目標へと再び立ち上がる思いを聞いた。
写真:七野一輝/撮影:ラリーズ編集部
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「すごいね」でのめり込んだ卓球
生まれつきの二分脊椎による下肢機能障害で、膝から下の感覚がなく、太ももの筋肉が弱い。
卓球との出会いは中学1年生のときだ。
私立和光中学校(東京都町田市)で、当時卓球部顧問だった井上先生が、障がい者との共同教育を推進、その雰囲気の良さもあって卓球部に入部した。
写真:七野一輝の中学校時代/提供:七野一輝
入部当初は、試合で勝つというよりただ楽しむことしか考えなかった。
「試合に出場すると、障がいがあることで色々な目で見られると思い込んでいて、躊躇していました。井上先生から『1回でいいから試合に出てみなよ』と後押しされて、出場すると、会場ですごいね、と声をかけてもらいました。それが嬉しくて、卓球にのめり込んでいきましたね」
写真:七野一輝/撮影:ラリーズ編集部
父が見つけてきたパラ卓球
中学3年生の時、父がインターネットでパラ卓球の大会を見つけてきた。パラ卓球について何も知らないまま、全日本パラ卓球選手権(当時:国際クラス別パラ卓球選手権大会)の立位の部に高校1年生で出場した。
翌年の高校2年生の同大会で準優勝すると、国際大会派遣選手に選考された。国際大会のことも何も考えていなかったが、薦められるままに高校3年生の時に国際大会に初出場した。
「ちょうど当時はリオパラリンピックの時期で、出場を決めている選手と一緒に合宿をしたり、大会に参加させていただいて、少しずつ自分自身パラリンピックに出場したい、と思うようになりました」
写真:立位の部で試合をする七野一輝/提供:七野一輝
立位の部から車椅子アスリートへの転向
その後、全日本パラ卓球選手権大会の立位クラス6で3連覇、世界選手権出場するなど順調な競技生活を送っていたが、競技生活を揺るがす事態が起きる。
2022年4月、元々亜脱臼していた股関節が肉離れの怪我により悪化し、立位でのプレー継続が困難になったのだ。
「もし完治しても大きなリスクを抱えながら競技を続けることになってしまう可能性があり、思い切って車イスに転向しました」
過去、日本において、立位と車椅子の両方で優勝したパラ選手がいないことに象徴されるように、車椅子卓球はまったく別の世界だった。
「着座時は立位と違って、目線や重心が変わります。卓球台の奥行きがわかりにくいのです。土台は安定しますが、攻撃と変化を使うバランスが難しい」
写真:パリパラリンピックでプレーする七野一輝/撮影:ITTF
持ち前の負けん気で、その大きな壁を乗り越えた七野は、全日本パラ卓球選手権大会の車椅子クラス5の部で初出場初優勝、その年は立位クラス6の日本代表に選出されていたが、車椅子転向により、代表活動には参加できていなかった。しかしこの優勝をもって車椅子の日本代表に正式に認められた。(※転向当時は国際クラス分けを受けていなかったのでクラス5でプレー)
「車椅子転向後すぐだったので、パリは正直難しいと思っていましたが、初出場の国際大会で世界ランキング3位の選手に勝ち、次の大会でも全勝優勝し、初登場で世界ランキング3位となりました」
車椅子アスリートとしての経験が少ないぶん、色々な選手のビデオをみて、この選手のこの技術を参考にしよう、など研究を重ねた。
正式にパリパラリンピックに出場が決まったとき、嬉しいと同時に、もっと準備しなければ、という気持ちだったという。
本番のパリで大緊張「手が震えました」
パリパラリンピック卓球競技は8月29日に開幕、七野は男子ダブルス、男子シングルスの2種目にエントリーした。
「憧れのパラリンピックの出場で、めちゃくちゃ緊張しました。パラの前に、テレビでオリンピックをみていて『この会場で試合をするんだ』という気持ちになっていましたし、現地に到着すると、パラリンピックムード一色。会場ではさらに緊張してしまいました(笑)」
男子ダブルスは5位入賞。“最低限の結果は出せたかな”と、振り返る。
写真:パリパラリンピックでプレーする七野一輝/撮影:ITTF
そして、迎えたシングルス。
初戦の相手は今年5月のスロベニアオープンで勝利していた地元・フランス出身の選手だった。
「地元選手ということもあって、完全アウェイの状況。私も緊張していましたが、相手の手も震えているのがわかりました」
観客席には、日本からは所属のオカムラの社員10数人の応援団、親戚、友人など計30人以上が応援にきて、地元の応援に負けないぐらいの声援を送った。
「本当にありがたかったです。その声が耳に入ってきて緊張がほぐれ、2ゲーム目以降は普段のプレーができました」と当時を振り返る。
写真:パリパラリンピックでプレーする七野一輝/撮影:ITTF
世界ランキング1位に敗れ、無念のベスト8止まり
その試合に勝利した後、準々決勝の相手はダブルスでも対戦している世界ランキング1位のタイの選手であった。善戦するも結果はゲームカウント1-3で敗戦し、七野の初パラリンピック・シングルスは、無念のベスト8止まりで終わった。
「彼は勝つためにリスクを恐れず、どんな場面でも自信を持ち、思い切ったプレーで向かってきました。それに対して私は負けないための安定重視。勝つために思い切ったプレーをすることができませんでした。その違いが勝敗を分けたと思います」
七野は、このパリに競技人生をかけていた。
負けた翌日、悔しい気持ちが大きく、選手村の自室でただボーっと過ごしていたという。
「卓球競技は続いていたので、スコアだけは気にしていましたが、やっぱり自分がその場にいたいという気持ちが強く、正直、悔しい気持ちでいっぱいで」
メダルが取れたらこのパリで競技を辞めようかと思っていた。メダルは取れず、かといって、すぐロスを目指せるほど、気持ちの整理がつかなかった。
七野の原動力。それは周囲の支えである
写真:社内の応援Tシャツを手にする七野一輝/撮影:ラリーズ編集部
ここまで七野を支えてくれたのは、家族、コーチなどの卓球関係者、そして2021年にアスリート雇用で七野を採用したオカムラのサポートだった。
パリの会場に、社長以下10数人が応援に来てくれて、応援ウチワやTシャツで七野を後押しした。出発前には、同期からサプライズ企画で全国の支店にいる社員からビデオメッセージをもらったり、その他にも業務連絡の文末にパリへの応援メッセージを書いてもらうこともあったという。
写真:okamuraの選抜メンバーが、パリに赴き七野に声援を送った/撮影:ITTF
七野が所属する部署、サステナビリティ推進部DE&I推進室の上司・望月さんは、その仕事ぶりをこう評する。
「オリンピック・パラリンピックを目指せる正社員は、七野さんが弊社で初めてです。練習量を増やさなくて大丈夫?と聞いても、“業務メインで少ない練習時間に限りがある方が工夫して集中できます”、という返事をもらいます。仕事もしっかりとしたい、という意識が強く、頼りになるメンバーです」
七野の普段のスケジュールは、業務5割・練習5割程度だという。
望月さんは、共に働くメンバーとして七野を誇りに思っている。
「業務もこなしている中で、パリパラリンピックの出場権を獲得できたということは素晴らしいこと、彼のアスリート魂のなせるわざだと思います。障がいがあろうとなかろうと会社に貢献する姿勢は一緒で、彼の姿をみて、我々社員はともに働く仲間だと誇りに思っています。パリパラでは、離れた場所の社員もWEBで一緒になって応援して、社員同士がつながるきっかけとなり、結果的に、全社が彼のファンになりました」
写真:七野一輝(左)と上司の望月浩代さん/撮影:ラリーズ編集部
そして、七野はロスでのメダルを目指す
大きなサポートに深く感謝しつつ、七野はロスでのメダルを目指すことを決めた。
現時点で、卓球で立位の部、車イスの部で日本代表を経験しているのは七野だけだ。負けず嫌いの七野だからこそ、開拓できる未来がある。
「車椅子に転向した時に、“車椅子より立位の方が強かったね”と言われたくありませんでした。今は、車椅子選手としてもっとできることがあると思いますし、これまでの常識に捉われず、立位での経験を武器に今後の競技生活の可能性を広げながら楽しみたいと思います」。
負けん気の強さと爽やかさが同居する、つまりアスリートそのものの姿があった。
写真:七野一輝/撮影:ラリーズ編集部