「あのとき僕はうつでした」プロ卓球選手・上田仁が初めて明かす休養の真相【第1話】 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

卓球×インタビュー 「あのとき僕はうつでした」プロ卓球選手・上田仁が初めて明かす休養の真相【第1話】

2021.05.15

この記事を書いた人
1979年生まれ。2020年からRallys/2024年7月から執行役員メディア事業本部長
2023年-金沢ポート取締役兼任/軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

上田仁(うえだじん)という卓球選手がいる。

1991年生まれ、29歳。
青森山田中学・高校、青森大学を卒業後、実業団チームの名門・協和キリンに入社し、全日本社会人卓球選手権3連覇など輝かしい成績を収める。

日本代表入りすると卓球チームワールドカップ2018では決勝進出の立役者となり、水谷隼のすぐ下の世代として、活躍を期待される。
2018年秋、Tリーグが開幕。実業団の看板選手としての立場を捨て、プロ卓球選手としての道を挑むと、ダブルスでは最多勝でベストペア賞を獲得、五輪日本代表も射程距離に入ったかに見えた。


写真:チームワールドカップ2018で大逆転勝利を収めた上田仁/提供:アフロ

しかし翌年の2019年秋、上田仁の姿が消えた
Tリーグ2ndシーズン中盤から突然、上田は試合に出なくなった。
いつからか、日本代表候補者リストからも名前は消えていた。
卓球選手の中でもひときわファンからの信頼の厚い選手だ。なぜ上田が出場しないのか、と心配する多くの声は、やがてそれが心因性の体調不良による休養だと察すると、自然と静かになっていった。

「公表したかったんですが、選手を続けていく上でレッテルを貼られたり、同情を買って試合するのも違うなという葛藤があって。コートに戻って完全に復活した後に、と思いました」

396日後、上田はコートに戻ってきた。
絶望の淵で自分自身の“プロ論”を掴んだ男は、いま、吹っ切れた表情で言う。

あの頃、オーバートレーニング症候群という病気で、うつに苦しんでいました


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

代表選考会での絶望感

上田仁が、違和感を感じたのは2019年2月だった。

その約2ヶ月前の12月、世界選手権ブダペスト大会の日本代表選考会で、上田は敗退した。上田が五輪代表を狙う上ではどうしても勝たなくてはならなかった代表一次選考会で空回りし、20人中17位という結果に終わった。その絶望感は大きかった。

「当時、世界ランキングは日本人の中で4番か5番でした。でも選考会が全然ダメで、東京五輪を目指していた気持ちと、世界選手権に出られないという現実の差が思っている以上に大きかった」


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

そのとき、同じく代表を逃した選手に吉村真晴がいる。
そのすぐ後のナショナルトレーニングセンターでの合宿での吉村の一言を今も覚えている。
「ちょうど隣の台で真晴と(世界卓球代表に選ばれていた)木造勇人が練習してて、真晴が木造に“お前好きに練習していいよ”って言うんです。痛いほどその気持ちがわかった」

ちなみに、その後、吉村真晴は、張本智和の怪我により急遽、石川佳純と組んだミックスダブルスで、代表落選したはずの世界選手権に出場することになる。
そこで吉村/石川ペアは銀メダルを獲得したのは周知の通りだ。


写真:2019世界選手権ブダペスト大会で銀メダルを獲得した吉村真晴と石川佳純ペア/撮影:田村翔(アフロスポーツ)

「(真晴は)持ってるなと思いますけど(笑)、でも一度切れた気持ちを戻してもう一回っていうのは並大抵のものじゃない。僕はその前の段階で、頑張ろうにも頑張れなくなってしまった」


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

練習拠点がない

プロ転向後の練習環境の変化も、上田に追い打ちをかける。学校や実業団チームの卓球部は、当然のように練習場を持っている。しかし、まだ立ち上がって3年目のTリーグには練習拠点がないチームもある。
そんなことは百も承知で、自らが歴史を作るプロの道を選び、岡山リベッツのキャプテンとしてチームを率いてきた。

上田仁(岡山リベッツ)
写真:Tリーグ1stシーズン開幕時の上田仁/提供:©T.LEAGUE

しかし、完全に崩れてしまった自身を立て直すには、練習拠点が必要だった。
一方で、それは無いものねだりで、プロらしからぬ姿勢だとも思った。
「企業にいるときは、やっぱり頼る人だったり、息抜きがあったんです。でもプロになった後は、今まで頼ってた人にも本音が言えなくなってしまって」
通っていた馴染みの練習場からも、少しずつ足が遠のくようになった。


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

診断は「オーバートレーニング症候群」

気力は急速に失われていった。3歳でラケットを握ってから初めてのことだった。
「でも、そのときは何が原因かもわからなかったんです」

それでもプロ卓球選手の、次のシーズンはやってくる。

2ndシーズン開幕直前の8月、上田は家族の薦めで医者の診断を受けた。
病名は「オーバートレーニング症候群」だった。

サッカー界で、大久保嘉人、権田修一、森崎兄弟らが罹ったことで知られる。重症になると、競技に復帰できなくなってしまう可能性もあると言われる。
サッカー選手の病気のように思われる一因は、Jリーグが早くからチーム専属ドクターを持っていたからこそ、その病名にたどり着けた側面もある。


写真:サッカー日本代表GKの権田修一も苦しんだ/撮影:新井賢一/アフロ

競技力の高まりに合わせ、急激に国内で競技人気が高まり、プロ選手が次々と生まれた日本の卓球界。
過酷な代表争いや、初めてのプロとしてのプレッシャーの中で「オーバートレーニング症候群」に罹る選手が生まれても、何ら不思議ではない。


トップ選手の卓球は“100メートルを走りながらチェスをする”と評されるほど心身を酷使する

でも上田は、休養するという選択を取れなかった。卓球界、とりわけTリーグに、休養するという前例がなかったからだ。「この道で生きていこうとプロ転向して2年目で休むっていうのはできなかった」。

何もなかったように、開幕したTリーグ2ndシーズンの試合に出場し続けた。8月29日の開幕戦から10月19日までのおよそ2ヶ月、計7試合。
しかし、その実情は、試合が終われば帰ってひたすら休養する。試合の当日に試合だけをする日々。

当然パフォーマンスは落ち、勝てなくなっていった。


2ndシーズン前半、上田は不調を隠して出場を続けた

チームメイトにも言えなかった。
森薗政崇、吉田雅己、町飛鳥。チームには青森山田高校時代から長い付き合いの後輩が多く、自分が先輩として引っ張ってきたという自負があった。“後輩たちに弱音を吐いてはいけない”、その思いがさらに上田を追い詰めた。

「でも、それはすごく彼らに失礼なことでした。同じチームで戦ってるのに。休養中、奥さんから“それはあなた自身がその人たちを認めてないってことだよ”って言われて」

森薗政崇(左)/町飛鳥(右)ペア
写真:森薗政崇(左)/町飛鳥(右)ペア(岡山リベッツ)/提供:©T.LEAGUE

9月のアジア卓球選手権大会では日本代表として出場予定だったが、辞退した。あれほどこだわった日本代表は、そのときの自分が立つ場所ではなかった。
「もう代表に戻れないと思いました。代表を降りるとスポンサー関連収入も減ります。プロになって家族を養っていこうと思っていたのに」


写真:2018ジャパンオープンを戦う上田仁/提供:ittfworld

プロは弱みを見せちゃいけない

次第に夜も眠れなくなった。

結局プロは孤独なんだな」。その頃、上田は思っていた。「でも自分が選んでプロになった以上、人に弱みを見せちゃいけない」。その頑なな“プロ論”が、さらに上田を人前から遠ざけた。

11月23日、発表されたオーダー表に上田の名前はなく、ベンチにも姿はなかった。

「無理を続けて、自分の中で何かが超えてしまった」
遅すぎたくらいの上田の完全休養の始まりだった。


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

引退かなと思った

「正直引退かなと思いました。でも卓球しかしてこなかった自分に何ができるんだって」家で何も手につかない様子の上田に、妻は普段と変わらず接した。

「頑張らなくていいよ。やりたくなるまで休めばいいし、やりたくならなければやめればいい」

上田はそのときの妻に深く感謝している。「妻がいなければ、おそらく当時の僕は休む決断さえできなかった」


写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織

再生のきっかけは、後から振り返るとたいてい意外なものだ。

それは上田の場合、ドイツで暮らす恩師からの一通のLINEだった。

>>第2話 「いろんな生き方、いろんなプロがいていい」Tリーガー・上田仁、ドイツで掴んだ復活の契機 に続く)