取材・文:川嶋弘文(ラリーズ編集部)
フリーアナウンサーの山﨑雄樹さん(45)は、大学卒業と同時に「放送局でアナウンサーになる」という目標を叶えた。
現在はTリーグで実況を担当するなどフリーとして活躍の幅を広げている同氏は、趣味として続ける卓球でも40代で全国大会に出場するなど、自ら決めた夢や目標を叶える達人だ。
山﨑氏は狭き門であるアナウンサー試験をどうやって突破できたのか?高い目標を達成するコツとは?同氏に教えを乞うた。
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アナウンサー志望のきっかけは「生徒会」と「キン肉マン」
ーーアナウンサーに憧れを抱いたきっかけは?
山﨑:きっかけは2つあります。1つ目は小学校6年生の時、明確に「将来アナウンサーになるぞ!」と決めたきっかけがありました。当時、児童会(生徒会)の会長選挙に立候補したんですけど、その時に投票権がある4年生から6年生までの前で行った選挙演説のスピーチが思いのほかウケたんですよね(笑)。
写真:山﨑雄樹/撮影:ラリーズ編集部
ーーどんなスピーチをされたんですか?
山﨑:僕の名前の雄樹(ユウキ)をモジって、当時のアダ名が「ユーキャン」だったんですけど、演説で「ユーキャンって英語でどんな意味か知ってますか?You Can。あなたはできる、という意味です。僕だったら生徒会長としていい学校にすることができます!」と熱をこめたんです。そうしたら思いのほか反響が大きかった。普通は自分のクラスから立候補した候補者に投票するんですけど、結構他のクラスの子も僕に投票してくれて。2位以下をダブルスコア以上で引き離す圧倒的な得票率で選挙に勝てたんです。
この時に「うわ!言葉って面白い!」って思って。そのことを母に話したら「言葉を使う仕事の代表例」としてアナウンサーを教えてくれたんです。そこからアナウンサーの仕事に興味を持ちました。
ーーもう1つのきっかけは?
山﨑:大好きだった漫画の実況シーンです。僕らが見てたのってキャプテン翼、キン肉マン、タッチなどなど。当時好きだったスポーツ漫画には、必ず実況アナウンサーが出てきますよね。
「おおー!ここで翼くん、ドライブシュート!」とか。
ーー確かに漫画でも実況アナウンサーが読み手を盛り上げますね。
山﨑:こうして身近に感じていたアナウンサーという仕事に興味を持ちながら、テレビを見たり、ラジオを聞いたりしていると「どうしてこんな言葉が生まれるんだろう」とか「この言い回し、丁度いい。淡白でもないしギトギトもしていない。言葉のセンスがすごい」と感じるようになって。そしていつか自分もそういう言葉を使えるようになりたいと思いましたね。
大学選びも「全てはアナウンサーになるため」
写真:卓球の実況をする山﨑雄樹アナウンサー/提供:本人
ーーアナウンサーは狭き門ですよね?どう攻略されたのでしょうか?
山﨑:テクニックというよりは「絶対にアナウンサーになる!」と覚悟を決めたことが一番大きいですかね。就活の時もアナウンサー枠しか受けなかったですし、学生時代もアナウンサーになるために部活を選びました。
ーーいつ頃から具体的な準備を始めたのでしょうか?
山﨑: 本格的に準備を始めたのは大学に入ってからですね。立命館大学放送局という団体に入りました。アナウンス研究会とかではなくて「放送局」。100人近く局員がいてアナウンス部、技術部、制作部があって、学園祭や新歓など学内行事を仕切るんです。イベントがあれば司会や音響をやる。ちゃんと週3回練習があって、発声の練習をしていましたね。
ーー本格的ですね。
山﨑:高校生の時に「どの大学がアナウンサーを輩出しているか」を調べました。全国的には早稲田のアナ研が名門なのですが、僕は三重の出身なので、関西の大学を探していたところ、NHKの7時のニュースでキャスターをされていた川端義明さんが立命館出身と知り、毎年1人はアナウンサーになっていることが分かりました。
ーー高校時代から将来を意識した大学選びをされていたと。どんな学生時代でしたか?
山﨑:とにかく毎日先輩に見てもらってアナウンスの練習をしてましたね。学内放送で喋れるようになるには色んな検定があって。ニュース、天気予報など。
関門なのはチーフアナウンサー検定です。
放送事故にも耐えなければいけなくて、必ず身内でドッキリを仕掛けるんです。何回振っても音楽が流れないとか、いきなりサブアナウンサーが放送禁止用語を言うとか(笑)
悪い遊びですよね。それにいかに冷静に対処するかを試すんです。
人気職業の狭き門、アナウンサー試験をどう突破したか?
ーー当時、就職活動はどのように行ったのですか?
山﨑:アナウンサー志望の学生は、全国どこかの局に受かればいいというのが基本スタンスなんですよね。
採用枠が各局1人とか2人。東京の枠が多い局でも男性2人、女性2人という時代でしたので「この局のアナウンサーになりたい」と思ってもなかなか厳しい。
ですので手当り次第募集がある局を受けていくわけですが、僕の場合はどうしてもプロ野球の実況がしたかった。
なので「ラテ兼営」局でプロ野球のあるところを志望していきました。
ーーラテ兼営局(読み:らてけんえいきょく)とは?
山﨑:「ラ」がラジオ、「テ」がテレビ。つまりテレビとラジオを両方持っているということですね。
テレビだけだとスポーツ中継の放送回数も少ないし、ラジオは言葉だけでいろんなものを伝えるからものすごくトーク力が鍛えられる。それは実況だけじゃなくフリートークもそうです。やっぱりラジオで喋れてこそ一人前っていうのがあるので。
ラテ兼営局かつプロ野球ありは当時東京、大阪、名古屋、広島、福岡、この5つ。楽天はまだ仙台になかったし、日本ハムも東京ドームをジャイアンツと半分半分で使っていた時代です。
とにかくこの5つのどこかに行きたかったんですよね。
ーーアナウンサー試験って大変そうなイメージがあります。
山﨑:それが、最初に東京のTBSを受けたんですけど、そしたら本当にたまたまなんですけど、大ブレイクして最終まで残ったんですよ。受かっていれば安住さんの1つ下の後輩でした。
男性8人、女性8人で、僕は立命館だったから京都から行っていて、ほかはみんな東京の大学出身ですごい人ばかりでした。
女子はミスコン上位も当たり前だし、男子は「デートでヘリコプター使う」とか、真偽のほどはわからないですけど「あいつは総理大臣の推薦状があったらしい」とか。僕だけかなり場違いな感じはあったんですけどね。
ーー試験ってどんなことをするんですか?
山﨑:最終試験では、4泊5日で朝から晩までアナウンス講習会と称して全てを見られる。ニュースの時間には、吉川美代子さんが来て下さってとても緊張しました。他にもスポーツ実況は宮澤隆さんと初田啓介さん。フリートークの時間には雨宮塔子さんや斎藤哲也さんが来て下さって。おそらく食事の所作を含めて色々なものを見られたんだと思います。
写真:山﨑雄樹の就活ノート/提供:本人
ーー就職活動で特に大変だったのは?
山﨑:内定をもらうための正解が無いということ。そして最後の方まで残ってもなかなか内定が頂けないこと。
僕らのときはバブルも弾けてるから交通費も全部自分で出さないといけなかったし、小さいときから貯めたお年玉100万円くらい全部使いましたね。京都から新幹線で東京に行って、30秒くらいの面接で終わって、また京都に戻って2日後に来てくださいって。今度は面接が3分くらいになって、また戻って。次来たら、5分になって。
それでも結局、TBSは受からなかった。TBSだけでも7回くらい選考に行ってたので、思い入れも強かった分、凹みました。
そしてその後も、大阪、名古屋、広島、福岡と全て受けて、全て最後の方で落ちました。
ーーそこでアナウンサー以外の仕事は考えなかったのですか?
山﨑:もうアナウンサー、一筋ですよ。キー局の一般職はどう?って言われた時も一切ブレなかった。
その時はものすごくピュアな気持ちがあって、カッコつけて友人に言ってましたもん。アナウンサーって仕事は生きていく中でテレビなどでずっと目にする職業。だから一生つきまとってくる。もしアナウンサーになれなかったら、「俺は本当はアナウンサーになりたかったのになぁ」という気持ちになってしまう。もちろん時が経てば、割合は小さくはなっていくんでしょうけど、絶対に0にならないと思うんですよね。絶対後悔するだろうと思って。
写真:山﨑雄樹/撮影:ラリーズ編集部
ーー強い意志を感じます。
山﨑:それで就職浪人でもしようかなと思っていた時に、有り難いことに地方局3社からお誘いがあったんです。キー局の選考でいいところに残ると地方局が拾ってくれるということだったんだと思います。
その中の1社が、後に入社することになる熊本放送(RKK)でした。
九州の人は人情味に厚くて、優しい人が多かったのでここならやっていけると思いました。人事部長も熱心に誘って下さったことも大きかったですね。
そしてRKKはローカル局なんですけど、高校野球や高校ラグビー、高校駅伝など色んなアマチュアスポーツに力を入れている局だったのも魅力的でした。入社したら、2年目に国体があって、4年目にインターハイがあるぞ、という巡り合わせにも運命的なものを感じて内定を受諾しました。
写真:山﨑雄樹/撮影:ラリーズ編集部
ーーアナウンサーになりたい人、そして目標に向かって頑張っている読者に向けたアドバイスをお願いできますか?
山﨑:僕がアナウンサーになりたいという学生さんにアドバイスするときに言うのは、全局で書類選考や一次面接で落ちてたら、それは申し訳ないけど向いてないから仕方ない。
でもどこかの局で最終まで残ったのなら向いてないわけはないから、本当に全局、民放もNHKも、NHKは契約キャスターもある。それからラジオだけの局もあれば、ケーブルTVもあるし、必ずどこかではなれるはず。だからどこまで受けるのか、挑戦するラインを自分で決めて諦めずに挑戦するべきとお伝えしています。
それから既に夢を叶えている方に素直に教えてもらうことも大切です。TBSの最終まで残れたのもアナウンサーの先輩の長峰由紀さんにOG訪問の機会を頂けたおかげです。かなり長い時間お話をして下さって、書類も見て頂きました。そしたら志望理由とか沢山書いてたのが「こんなの書きすぎよ。どうせ読まれないんだから箇条書きで3つでいい。その方が読みやすいんだから」って、言われて「本当に!?」って思ったんですけどね。書類提出前にも添削して下さって、事あるごとに電話もくださったり、FAXくださったりとか、ただの訪問した一学生に本当に良くしてもらったんですよね。それでTBS系列(JNN・JRN)に入りたいって思うようになりました。
写真:山﨑雄樹アナウンサー。アノンシスト賞授賞式にて/提供:本人
ちなみに長峰さんにはアノンシスト賞(編集部注:TBSを初めとするJNN・JRN系列各局のアナウンサーの中から、毎年優秀なアナウンサーに与えられる賞)のスポーツ実況の部で優秀賞を頂いた時に表彰式でお会いしてご挨拶ができました。やっと恩返しが出来たという気持ちでしたね。
フリーになった今もアナウンサーの大先輩が助けてくださることが多いです。日本リーグの協和キリンのホームマッチでは、憧れの福澤朗さんにも直接お会いし、卓球の実況について伺うことが出来ました。
写真:山﨑雄樹アナウンサー。協和キリン、ホームマッチにて/提供:本人
他の職業を目指す方にも、卓球を頑張っている方にも、この考え方は応用できるのでは無いでしょうか。
(インタビュー後編“「このシーン、あなたならどう伝える?」 奥が深いスポーツ実況の世界”ではフリーアナウンサーとして活躍する山﨑氏の今についてお届けします)