取材・文:古山貴大
いよいよ『平成』が幕を閉じようとしている。
スポーツ史を紐解けば、野球では野茂英雄やイチローをはじめとしたメジャーリーグ進出、陸上では高橋尚子のシドニーオリンピック金メダル、桐生祥秀の日本人初100m9秒台、水泳では北島康介のオリンピック2大会連続2種目制覇など・・・まだ記憶に新しい人も多いだろう。
卓球界にとっても、平成は大きな飛躍の時代だった。この31年、卓球界ではどんな出来事があっただろう。卓球専門メディア「Rallys」編集長の川嶋と『平成の卓球』を振り返る。(インタビュアー:古山貴大)
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球界の重鎮たちが、現役だった時代【平成前期】
――平成前期(平成元年〜10年頃)の印象的な大会を教えてください。
「強烈だったのは平成8年(1996年)のアトランタオリンピックです。現中国卓球協会会長の劉国梁(リュウ・グォリャン、Liu Guoliang)氏が現役で、男子シングルスとダブルスで金メダルを獲得するなど、とにかく強かった。
翌年(平成9年)の世界卓球マンチェスター大会でも、男子ダブルスと混合ダブルスで優勝するなど、五輪と世界卓球の全種目で金メダルを取った。彼の特徴は何といってもサーブ。世界トップ選手でもレシーブミスを連発し、その後のルール変更に繋がったほど。本当に一時代を築いた選手だと思います」
写真:劉国梁/提供:アフロスポーツ――世界最強の中国の中でも特にすごいチャンピオンだったんですね。他には?
「他に印象に残っている海外選手では、スウェーデンのヤン=オベ・ワルドナー選手も挙げられます。彼は10代~30代の間、ずっと世界のトップに君臨していました。
1989年の世界卓球ドルトムント大会で優勝した後、8年後の1997年のマンチェスター大会でもまた頂点に立っているんですよ。しかもこの時は1ゲームも落とさずに完全優勝。平成4年(1992年)のバルセロナ五輪でも男子シングルスで金メダルを取ったし、50歳まで現役を続けていた。まさにレジェンドです。」
平成初期の日本卓球のレジェンドといえば・・・
――日本人で印象に残っている選手は?
「まず挙げたいのが、中国から帰化した小山ちれさん。過去に世界ランキング1位になったこともある選手で、全日本卓球選手権大会でも6連覇含めて合計8回優勝しています。
写真:小山ちれ/提供:青木紘二・アフロスポーツあとは、Tリーグチェアマンの松下浩二さん、トップおとめピンポンズ名古屋の新井周監督も当時は現役でした。いま日本卓球界を導いている人が現役で活躍していた時代といえますね。
松下チェアマンは、全日本選手権で計4度のチャンピオン、新井監督も平成16年(2004年)のアテネオリンピックに出場しています」
――まさに平成31年間の歴史を感じます。
「ちなみに『愛ちゃん』(福原愛さん)が卓球を始めたのも平成前期です。平成4年(1992年)に3歳で卓球を始めて、平成5年(1993年)に全日本選手権バンビの部で史上最年少優勝を果たしています。そこから最年少記録をどんどん更新していって・・・。
男子では水谷隼選手が平成元年に生まれているのも、平成の象徴のひとつではないでしょうか」
――選手以外で、象徴的な出来事はありましたか?
「ラケットは、今とは違うものが主流でしたね。卓球のラケットには、基本的にはシェークハンドとペンホルダーの2種類があります。
今はほとんどの選手がシェークハンドですが、平成前期はペンホルダーが男女ともに強かった。『卓球王国』といわれる中国でも、多くの選手がペンホルダーで試合をしていました」
平成ならではの名勝負があった【平成中期】
――平成中期(平成11年〜20年頃)の象徴的な試合は?
「平成16年(2004年)のアテネオリンピック決勝ですね。ペンホルダー同士の決勝で、日ペン(日本式ペンホルダー)の韓国の柳承敏(ユスンミン)と、中ペン(中国式ペンホルダー)の中国の王皓(ワンハオ)が戦って・・・。
柳承敏(ユスンミン)が勝利したことで、『まだまだ日ペンも行けるんだ』と興奮した人も多かったと思います。
写真:柳承敏/提供:ロイター・アフロ日ペンよりも中ペンの方がバックハンド技術が進歩していて有利。中ペンに勝つためには、フォアハンドで動き回って足で稼ぐしかなかった。いわば“古臭い伝統の卓球”で金メダルを獲得したことは、多くの人に夢と希望を与えた部分もあったかと。
今はシェークハンドが主流になっているので、ペン同士の決勝はおそらくもう見られない。卓球史においても、ずっと語り継がれる歴史的な試合ですね」
水谷隼選手、福原愛さんも活躍し始めた時代
――日本人で印象に残っている選手はいますか?
「平成中期は、松下浩二さんの時代ですね。日本初のプロ選手として1997年世界選手権ダブルスでもメダルを取ったし、2001年と2002年に全日本卓球選手権大会でも連覇。2000年の世界卓球クアラルンプール大会では、男子団体でも銅メダルを獲得しました。 この時に当時19歳だったティモ・ボル(ドイツ)を倒した試合はファンの間で語り草になっています。
女子だと、全日本卓球選手権大会で5度優勝した平野早矢香さん。世界ランキングトップ10入りも果たした選手で、平野友樹選手(協和発酵キリン/T.T彩たま)のお姉さんでもあります。
若手では、水谷選手が活躍し始めた頃です。2006年の全日本卓球選手権で優勝して、ここからどんどん波に乗っていく、という。
もちろん、福原愛さんも。平成13年(2001年)に全日本卓球選手権大会・ジュニアの部でシングルス優勝して以来、3連覇を達成しています。史上最年少でアテネオリンピックにも出場しましたね」
写真:福原愛/提供:川窪隆一・アフロスポーツ卓球の常識が覆った「ルール変更」
「平成中期といえば、ルール改正も大きな出来事です。まず平成12年(2000年)にボールの直径が38mmから40mmに変わりました。ボールが大きくなることで、空気抵抗が大きくなりました。
これにより、ボールに回転がかかりにくくなり、ラリーが続きやすくなりました。
平成13年(2001年)に、1ゲームあたりの点数が変更されたのも大きいですよね。以前はサーブ5本交代の21点先取でしたが、サーブ2本交代の11点先取になりました。
捨てサーブや捨てゲームがなくなり、1ゲーム1ゲームが見ててより面白くなりました」
――大きなルール変更ですね。
「ルール改正は実はこれだけではなくて。平成14年(2002年)には、サーブに関するルールも変わりました。
これまでは『ハンドハイド』といって、サーブを打つ瞬間を隠してもよかったんです。隠すことで『どんな回転をかけたか分からない』と相手が困惑して、サービスエースが取れることも多かった。
しかしそうしたサーブが禁止になったことで、サービスエースが減ってラリーがさらに続きやすくなりました。
あと忘れてはいけないのが、スピードグルー。国内では2007年に、海外では2008年にスピードグルーが禁止になりました。
スピードグルーは有機溶剤が入っていて、ラバーのスポンジに塗るとボールがすごく飛ぶようになる。人体の害になるという理由で禁止になりました。
ルール改正を振り返ってみると、卓球を『よりメジャーでおもしろいスポーツにするため』という趣旨のものが多かったと思います」
――なるほど。ルール以外で平成中期の出来事はありますか?
「平成14年~18年(2002年~2006年)に開催された、『スーパーサーキット』というシングルスの賞金付きトーナメントも外せません。
Tリーグの前身みたいなもので、『チキータの生みの親』とも言われているチェコのピーター・コルベル選手やドイツのヨルグ・ロスコフ選手など、海外のトップ選手も数多く出場しました。
日本人も、松下浩二さん含めて多くの選手が参加しました。ちなみに松下さんの平成21年(2009年)の引退も、平成の大きな出来事のひとつですね」
写真:松下浩二/提供:アフロスポーツ卓球がエンターテイメントに進化した時代
「メディアにも大きな変化がありました。平成17年(2005年)にテレビ東京で世界卓球の放送がスタートしたんです。
それまでテレビで卓球の試合をやるのは年に1度、NHKで全日本の決勝をやるだけでしたから、感激したのを覚えています。
俳優の窪塚洋介さん主演の映画『ピンポン』の公開も、大きな話題を呼び、卓球ファンを拡大しましたね」
――平成中期頃から、日本の卓球は幅広い層の関心を集め始めたんですね。
ここまで、平成前期~中期の卓球史を振り返った。平成前期は、現卓球界の重鎮たちが現役で活躍していた時代。平成中期は、ルール変更や現トップ選手の台頭など変化に富んだ時代だった。
平成後期に入ると、日本の卓球勢は右肩上がりに躍進し、黄金時代を築くこととなる。
後編では平成後期を振り返るとともに、令和時代に活躍が期待される選手を紹介する。