「日本卓球の祖」は誰?「荻村伊智朗」以前、日本卓球の夜明け【シリーズ卓球の歴史#1】 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

卓球×エンタメ 「日本卓球の祖」は誰?「荻村伊智朗」以前、日本卓球の夜明け【シリーズ卓球の歴史#1】

2018.07.27

文:武田鼎(ラリーズ編集部)

※写真は国際卓球連盟会長として卓球界の発展に貢献した故・荻村伊智朗氏

日本の卓球史には多くの偉人たちが名を残している。実績という点で言えば水谷隼、卓球の認知向上の点では福原愛、この2人は文句なく「日本卓球の功労者」と呼べるだろう。もしかしたら、近い将来、その偉大な系譜に張本智和も名前を連ねるかもしれない。

では、その歴史を逆に遡ってみよう。卓球ファンならすぐに松下浩二の名前が浮かぶだろう。なにせ「プロ第一号」の日本人選手だ。ならその先は…?往年の卓球ファンの皆様、ご名答、荻村伊智朗だ。ではそのさらにずーっと先、日本の名プレーヤーたちの“祖”は一体、誰だろう。答えはシンプル。「最初に日本に卓球を持ち込んだ人物」にほかならない。彼がいなければ、荻村、松下、水谷、張本たちは生まれていなかったのかもしれないのだ。では日本に卓球はいつ持ち込まれたのだろうか。

>>水谷隼「実は1年間、球がほとんど見えない」深刻な目の症状を告白

日本の卓球界に“最初の一歩”をもたらした人物、坪井玄道

坪井玄道――。この名前を知っている卓球ファンはどれくらいいるだろう。坪井こそ日本の卓球界に“最初の一歩”をもたらした人物だ。坪井は東京高等師範学校教授(今の筑波大にあたる)で、日本に卓球を輸入したのが1902年のこと。当時の日本は明治時代、日露戦争の開戦を控えていた。日英同盟締結と同年に坪井はイギリス留学から帰国。同盟国であるイギリスからラケット、ボールなど卓球グッズ10セットを学校に持ち帰ったのだという。

Table Tennisとして日本に持ち込まれた卓球だが、テニスとは歴史的に大きな差はない。テニスは1878年には専用のテニスコートと専用クラブが横浜に完成したものの、外国人限定であり、日本人に広まったのは1900年の東京ローンテニス倶楽部の誕生がきっかけだ。もしかしたら明治時代の若者たちの中にはテニスより卓球を先に触れたことがある者もいたかもしれない。だが、卓球が上陸から30年後の1932年まで荻村伊智朗という不世出のプレーヤーの誕生を待たなければならなかったのに対し、テニスは1916年には熊谷一弥が渡米し活躍。全米2位のジョンストンを破り全米5位に入賞、一足早くスタープレーヤーを生み出している。熊谷はさしずめ「大正時代の錦織圭」と言ったところだろうか。

話を坪井に戻そう。その後坪井は、本郷にある日本におけるスポーツ用品製造販売業者の草分け的存在である運動用具店「美満津商店」にピンポンセットの試作を依頼、翌年の1903年には模範試合を開いている。日本が戦争へと突入する激動の時代の中、大正時代の若者はどんな思いで卓球に興じたのだろうか。

さて、次回は少し卓球から脱線して「坪井玄道」という人物にフォーカースしよう。実はこの坪井玄道、スゴい人物なのだ。

>>水谷隼が語る!なぜ中国は卓球が強いのか?

写真:アフロ