連載 私のネット際 ~河合秀文(明石S.U.C.代表取締役社長)〜インタビュー「プロフェッショナルと卓球」
2018.06.14
取材・文:川嶋弘文(ラリーズ編集部)
岡山県の最南端に位置する倉敷市児島。江戸時代から繊維の町として栄え、瀬戸大橋の本州側の起点として知られるこの地で「学生服」に人生を懸ける男がいる。明石スクールユニフォームカンパニー (以下明石S.U.C.)代表取締役社長の河合秀文氏だ。
一橋大学卓球部出身の河合氏は今秋開幕予定の卓球プロリーグ「Tリーグ」の岡山リベッツ(本拠地:岡山県岡山市)へのスポンサーにも名乗りを挙げたことで卓球ファンからも注目を集めている。
明石S.U.C.は「知る人ぞ知る老舗有名企業」である。その歴史は慶応元年(1865年)から153年。今では日本全国に5000校ある高校のうち約1300校の制服は同社が提供している。他にもTBSの人気ドラマ「花より男子」、続編の「花のち晴れ」の劇中の制服を提供していることもドラマファンの間ではよく知られている。
6代目として辣腕を振るう河合氏はこう語る。「学生時代にのめり込んだ卓球が、時に経営のヒントになることもある」
“卓球とビジネスの意外な共通点”を探るべく、ラリーズが河合氏にインタビューを実施した。
会社と自分は一体。そこに卓球台があった
創業家出身の河合氏が社長に就任したのは2005年のこと。学生服メーカー各社が少子化という逆風にさらされる中、河合氏の就任以降12期連続の増収を続け2005年には172億円だった売上高は2017年に256億円を超えた。国内での生産、販売体制を強化し、社員数も1400人を数える。
今では“児島の星” として地元に雇用を生む明石S.U.C.を率いる河合氏。河合少年と卓球との出会いは、幼いころから身近にあった明石被服興業(現明石S.U.C)の社内だった。
「子供の頃から会社の敷地内に卓球台があり、家族や社員と卓球を楽しんでいましたね。今もありますよ。」
物心ついた頃から、父のいる会社に遊びに来ては卓球をしていた。親族が集う会社は河合にとって我が家、文字通り「生まれた時から会社と自分は一体」だという。その後、中学は卓球部に所属するも、厳しすぎる先輩後輩の上下関係を目の当たりにし、練習からは足が遠のいた。一橋大学入学時も元々は体育会の卓球部に入るつもりは無かったが、偶然にも仲の良かったクラスメイト2名が卓球部に所属していたため、誘われる形で入部を決めた。
「中高で本気で卓球をやっていなかったから大学で火が着いた。周りは高校までで燃え尽きている中、私はほぼ初心者に近かったのでやればやるほど上達するのが楽しかった」
河合は週4回の部活の全体練習では飽き足らず、ほぼ毎日練習し、時には夜中まで白球を追いかけた。交流のあった東京大学の先輩や国公立最強の筑波大学の選手に憧れながら、基本ラリーの反復練習を多く行った。
「サーブとレシーブは上手い人には勝てないですが、ラリーは少しはうまくなったかな。」
父の背中を追いかけた23年間
1982年に一橋大学を卒業した河合氏は実家の明石被服興業に入社した。少子化時代を見越し、主力である学生服販売以外のカジュアル衣料など新規事業の種を探すのが河合のメインの仕事だった。入社翌年の1983年には父・正照氏が社長に就任し、父の背中を見ながら実践を通して経営手法を学ぶ日々が続く。
「(父は)仕事に対して非常に厳しい人でした。」
一般的に企業には創業期、成長期、安定・成熟期、衰退期の4つのライフサイクルがあると言われるが、河合氏の祖父ら3兄弟が活躍した1950年代〜1980年代が今の明石S.U.C.を支える「富士ヨット学生服」ブランドが立ち上がった創業期にあたる。そして創業期の厳しさや企業としての成長を最前線で目の当たりにしてきた父・正照氏は成長期を創った経営者といえる。正照氏が明石被服の舵取りを担った時期は戦前から続く“丁稚奉公”の価値観が変わりつつある時代だった。欧米のリベラルな発想が輸入され、労働者の価値観も変化した。経営者が従業員を使役するのではなく、個々の社員を尊重しながらも統率していくリーダーシップが求められる時代背景の中、経営の転換を図る父の背中を見て、河合氏も時代の大きなうねりを意識するようになっていったという。
「日本的経営のいい部分を残しながら悪い部分は時代に合うように変えて進化させてきたのがうちの強みです。今の若い世代は周囲への配慮からストレートに自己主張をしないものの、自分の意見を内に秘めている方が多い。その思いや意見を引き出すのが経営者の仕事」と時代の流れと世代間ギャップを繊細に捉えている。
安定・成熟期に加え第二創業期とも言える新しい発想で事業を伸ばし続ける河合氏は、学生服業界のトレンドをこう分析する。
「今年は児島で学生服が産まれてちょうど100周年の記念すべき年です。1918年に(角南周吉が児島で)学生服の生産をしてから一気に全国展開をし、戦争を挟みながらも安定成長を続けたのが1960年代まで。その後、日本が豊かになった1970年代から欧米のように制服無しでいいんじゃないかというムードが起こり、学生服メーカーに冬の時代が訪れました。その後1980年代からは少子化の流れで学校が生徒募集のために制服で個性を出す時代となりました。詰襟とセーラー服の大量生産から、ブレザーやスーツを個別にオーダー頂ける体制を整え、息を吹き返した経緯があります。モリハナエ先生デザインの制服を世に出したのもこの頃からです。最近では人気スポーツブランド”デサント”の体操服を全国1700校に拡販したり、高齢化社会のニーズに沿い介護服・看護服の開発も手掛けたりと、学生服をベースに新規事業にも力を入れています。」
そしてこう続けた。
「いい時もあれば悪い時もある。悪いことって重なることも多いですよね。卓球の場合、悪いゲームは捨てて次のゲームにいけることもあるが、経営はそうもいかない。悪い時にいかに粘り強くいられるかが大切です。一方でいい時は油断するとすぐに逆転されてします。これは卓球と一緒ですね。5〜6点のリードって意外とあっさり逆転されることがある」
社長から卓球少年に戻る瞬間
今も明石S.U.C.の社内には卓球台2台が置かれていると聞き、インタビューの最後にお手合わせをお願いした。ジャケットを脱いでラケットを持つ河合氏は卓球少年がそのまま大人になったような満面の笑みを浮かべていた。
サウスポーで正統派ペンホルダーの河合氏はそのリーチを活かしたフォアドライブを披露。右利きの筆者のバック側へカーブのかかった回転量の多いボールを何本も繰り出し、最後は見事なスマッシュで筆者のブロックをいとも簡単に打ち抜いた。それでも「普段はほとんどプレーはしませんよ」と飄々としている。だが、その鋭い打球は学生時代からの地道な反復練習の賜物であることは間違いない。創業から153年、河合氏は経営も卓球も地道な努力を積み重ねていく。