【及川瑞基が歩んできた道#4】優勝逃した最後の全中 「ブンデス行きます」不安抱え、新たな舞台へ | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

中学3年生時、ブンデスリーガのチームメイトとの写真/写真提供:及川瑞基

連載 【及川瑞基が歩んできた道#4】優勝逃した最後の全中 「ブンデス行きます」不安抱え、新たな舞台へ

2018.12.01

三部のことは東北の大会で対戦し負けた小4の頃からライバル視しているから仲は悪くなかったものの、試合前となればカーテンの裏に隠れて三部のプレーを研究したりしていたものだ。

そして卓球星人たちの巣窟、青森山田の環境がいい意味でも悪い意味でも“最高”だった。卓球場が「24時間使える」のだ。寮とつながっていて、練習したいと思った時には文字通り「いつでも」打ち込むことができる。やはり同期には負けたくない。夜10時にふと「このサーブならいけるかも!」と思い立ったらベッドの上でくつろいでいても、すぐさま練習場に直行、必死になって打ち込んだ。

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初めての全国大会優勝

そんな負けず嫌いな性格や、青森山田の恵まれた練習環境も幸いし、中学1年生の時に全日本カデットの部(13歳以下の部)で優勝を果たした。これが僕にとって初めての全国大会優勝の経験だった。これまで勝利に恵まれなかったのは第1回目第2回目で書いた通りだが、勝てるようになったのは板垣さんの指導も大きかった。細かくノートを取るように言われ、徹底的に自分を、相手を分析するようになったのだ。「なぜ勝てないか」を見つめ、「技を盗む」ということの意味が徐々に分かり始めたのもこの頃だった。

しかし、ここで優勝を果たしたものの、これ以降結果がついて来なくなってしまった。全国中学生大会(通称・全中)では1年目は出場できず、2年目はベスト16、3年目、迎えた男子シングルス決勝で三部にゲームカウント0-3のストレートで敗北してしまった。第3ゲームはわずか3点で抑えられ、屈辱を味わった。

なぜ勝てなくなったのか、今ならわかる。他の選手にもあることなのだが、初めて大きな大会で勝つと、それがプレッシャーになってしまうのだ。それにライバルたちから研究されるようにもなる。気づけば青森山田の仲間内でも勝てなくなり始めていた。

「なんでだろう」

最後の全中、タイトルを取りたかったが三部に勝てず、モヤモヤした思いを抱いている時に、チャンスがやってきた。

「ブンデス、行ってみるか」

ドイツから邱建新コーチが青森山田に訪れていた。邱建新さんは元中国ナショナルチームの選手で、ドイツのブンデスリーガでも活躍、選手引退後はブンデスに残り、名門チームフリッケンハウゼンの監督として、また水谷隼さんのプライベートコーチとしてその名を馳せた名コーチだ。

邱さんからが「及川三部をブンデスリーガ4部に留学させないか」、と提案があったことを板垣さんから聞いたのだ。

板垣さんは僕に

「ブンデス、行ってみるか」

と言ってくれた。

正直、少し迷った。海外で自分がやっていけるのか。当時ドイツには青森山田の先輩の丹羽孝希さん、吉田雅己さん、森薗政崇さんがいた。しかし試合で所属チームに行けば一人になる。ドイツ語も分からないどころか、英語すらまったくできない。勉強は頑張っていたものの、話すことなんてほとんどしたことがないからだ。

でも僕の気持ちは決まっていた。

「ブンデスに行きます」。

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