三部のことは東北の大会で対戦し負けた小4の頃からライバル視しているから仲は悪くなかったものの、試合前となればカーテンの裏に隠れて三部のプレーを研究したりしていたものだ。
そして卓球星人たちの巣窟、青森山田の環境がいい意味でも悪い意味でも“最高”だった。卓球場が「24時間使える」のだ。寮とつながっていて、練習したいと思った時には文字通り「いつでも」打ち込むことができる。やはり同期には負けたくない。夜10時にふと「このサーブならいけるかも!」と思い立ったらベッドの上でくつろいでいても、すぐさま練習場に直行、必死になって打ち込んだ。
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初めての全国大会優勝
そんな負けず嫌いな性格や、青森山田の恵まれた練習環境も幸いし、中学1年生の時に全日本カデットの部(13歳以下の部)で優勝を果たした。これが僕にとって初めての全国大会優勝の経験だった。これまで勝利に恵まれなかったのは第1回目、第2回目で書いた通りだが、勝てるようになったのは板垣さんの指導も大きかった。細かくノートを取るように言われ、徹底的に自分を、相手を分析するようになったのだ。「なぜ勝てないか」を見つめ、「技を盗む」ということの意味が徐々に分かり始めたのもこの頃だった。
しかし、ここで優勝を果たしたものの、これ以降結果がついて来なくなってしまった。全国中学生大会(通称・全中)では1年目は出場できず、2年目はベスト16、3年目、迎えた男子シングルス決勝で三部にゲームカウント0-3のストレートで敗北してしまった。第3ゲームはわずか3点で抑えられ、屈辱を味わった。
なぜ勝てなくなったのか、今ならわかる。他の選手にもあることなのだが、初めて大きな大会で勝つと、それがプレッシャーになってしまうのだ。それにライバルたちから研究されるようにもなる。気づけば青森山田の仲間内でも勝てなくなり始めていた。
「なんでだろう」
最後の全中、タイトルを取りたかったが三部に勝てず、モヤモヤした思いを抱いている時に、チャンスがやってきた。
「ブンデス、行ってみるか」
ドイツから邱建新コーチが青森山田に訪れていた。邱建新さんは元中国ナショナルチームの選手で、ドイツのブンデスリーガでも活躍、選手引退後はブンデスに残り、名門チームフリッケンハウゼンの監督として、また水谷隼さんのプライベートコーチとしてその名を馳せた名コーチだ。
邱さんからが「及川三部をブンデスリーガ4部に留学させないか」、と提案があったことを板垣さんから聞いたのだ。
板垣さんは僕に
「ブンデス、行ってみるか」
と言ってくれた。
正直、少し迷った。海外で自分がやっていけるのか。当時ドイツには青森山田の先輩の丹羽孝希さん、吉田雅己さん、森薗政崇さんがいた。しかし試合で所属チームに行けば一人になる。ドイツ語も分からないどころか、英語すらまったくできない。勉強は頑張っていたものの、話すことなんてほとんどしたことがないからだ。
でも僕の気持ちは決まっていた。
「ブンデスに行きます」。