【日本卓球史#2】大正時代、関東と関西で食い違うルール、要因は「武士道」 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

卓球×エンタメ 【日本卓球史#2】大正時代、関東と関西で食い違うルール、要因は「武士道」

2018.09.11

現在、卓球のルールは国際的に統一されていて、そのことを誰も疑いません。ただ、今から100年前には、世界各国によってバラバラでした。日本ではかなり長い間、ラケットについて「木製」「平面」というルールしかなく、ラバーを貼らずに競技を行ってきました。それどころか、関東地方と関西地方でも卓球のルールが違っていたことをご存知でしょうか。

この記事では、日本の卓球史における黎明期のルールについて、ひも解いてみました。
(長嶺超輝/卓球ライター)

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ピンポンは、子どもの遊びじゃない!

1902年(明治35年)、東京女子高等師範学校の教授だった下田次郎氏は、英国ロンドンに滞在している際、かの国の紳士の家に招かれました。

そのとき、室内でピンポンに興じる「ピンポン・インビテーション」の歓迎を受けたことが忘れられず、ピンポンの様子が描かれた絵はがきとともに、道具などを母国へ持ち帰ったのが、日本における卓球史のはじまりだとされます。

ただ、ピンポンのバット(ラケット)やボールなどは最初、玩具店で販売されていたので、ピンポンが「お手軽な遊び」という印象が長い間、拭いきれなかったのも事実でした。

その一方で、大学生を中心にピンポンを室内競技として捉え、テニスに勝るとも劣らない技術や戦略を独自に研究する者も、日本国内にも少しずつ現れ始めます。

イギリス生まれの「ピンポン」に、「卓球」という訳語があてがわれたのは、明治末期ごろといわれています。それを期に、ピンポンは子どもの遊びではなく、野球や蹴球(サッカー)、庭球(テニス)などと同様に、熾烈な勝負を競い合うスポーツとして認知されるようになったのです。

空振りサーブは「レット」

1910年(明治43年)ごろには、東京農大で卓球大会が開催されたことがありましたが、「飛び入り参加自由」といったお気楽なものでした。

しかし、のちに練習も本格化していき、慶應義塾大や早稲田大、東京歯科大などにも広がり、大正5年(1916年)には、都内の学生リーグを開催するにあたって、明確にルールが策定されました。

ただ、現在の卓球のルールとは異なる部分も、チラホラ見受けられます。
たとえば、「第4条の2」では、「サーブせんとして球がラケットに当たらざりし時はノーカウントとし、少しでも当たればサーブとみなす」と規定されています。サーブで空振りしてもレットと扱われていたわけですから、初心者も安心ですね。

また、「第4条の3」は、「サーブは徳義上、強球を打ち、または甚だしきカッチングボールは、なるべくこれを禁じるよう心掛くべし」と規定されています。サーブでスピードボールやカットを使うのは紳士的でないとされ、失礼だと考えられていたのかもしれません。ただ、「なるべくこれを禁じるよう心掛くべし」という書き方からは、「カットを全面禁止すると、それはそれでつまらない」という、当時の学生たちの本音も垣間見えますね。

卓球台について「卓面は白木のままを可とす」と定められていて、着色されていない無垢材の台も存在したようです。一瞬、ボールを見失いそうになることもあったかもしれません。

卓球ネットは水色で、上の縁に「桃黄色」の布を張るようにしていたようです。台が緑色の場合は例外的に、黄色のネットを使うものと定められていますが、いずれにしても現代より派手目な色の組み合わせですね。
 

エッジで1点入るのは「武士道に反する」

大正10年(1921年)には、全国統一組織である「大日本卓球協会」が発足しています。ただ、その頃になっても、東日本(関東)と西日本(関西)で卓球のルールが異なったままで、全国大会を開催するのに支障を来す状況だったらしいのです。

東日本と西日本で当時、ローカルルールの違いとして代表的なものはエッジボールの扱いでした。当時は「カバー」とも呼ばれていたようですが、西日本では現在のように「イン」として扱っていた一方、東日本では「ノーカウント」とされていたのです。

ボールが急に思いがけない方向へ跳ねるエッジボールで得点をしたときには、相手方にひとこと謝るのが慣習となっていますが、レットでやり直しなら、そもそも得点になりません。

東日本では、エッジボールは偶然のアクシデントなので、それで1点が入るのは「日本の武士道に背く」と考える人も少なくなかったと言われています。一方、西日本ではそもそもエッジボールか、台のライン上を跳ねたボールなのかの区別が困難なので、双方とも「セーフ」と扱うべきとの考えが主流を占めていました。

こんな「すれ違い」の状況を放置していては、確かに全国大会を開催したとき、激しく揉めてしまうことは明らかです。

大正15年(1926年)ごろに刊行された、全12巻からなる『アルス運動大講座』の第3巻には、「卓球」に関する章が掲載されており、ここには当時の「卓球の標準規則」が掲載されています。つまり、当時の全国統一ルールだったと考えられます。

ここでは第30条で「カバーセル場合」は、「セーフ」と扱うと定められていますので、エッジボールの扱いについて、西日本のローカルルールが採用されていることがわかります。

一方、第23条では「サーブは、強球またはカッテングボールを許さず」と規定されていて、さらに第28条では「レシーブは強球またはカッテングボールをなすことを得ざるものとす」とも定められています。

「カッチング」が「カッテング」に変更されているのも、若干気になりますが、サーブとレシーブにおいて、スピードボールとカットが全面禁止になったのが特筆すべき点といえるでしょう。

本格的な攻撃は「3球目から」という暗黙の了解だといえそうです。これも「武士道」の現れなのでしょうか。

<つづく>