なぜ男は、卓球全日本チャンピオンから餃子屋になったのか<野平直孝・前編> | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:野平直孝/撮影:寺西ジャジューカ

卓球インタビュー なぜ男は、卓球全日本チャンピオンから餃子屋になったのか<野平直孝・前編>

2020.04.29

文:寺西ジャジューカ

スポーツ選手には、いつか引退のときが訪れる。

20代で退く者がいれば、40歳近くまで現役を全うする息が長い選手もいるだろう。そんな彼らに共通して言えることは、現役生活より“第2の人生”のほうが長いという現実だ。

引退後も何らかの形で競技に携わり、ジャンルの底上げに関わっていくのか。それとも、スパッと別の世界で生きていくと決意するのか。

今回は、後者の代表的な元卓球選手に話を伺った。
現在は西国分寺で「餃子屋とんぼ」を営んでいる野平直孝である。現在43歳。

選んだ道は、卓球と何が違い、何か生かせるものはあったのだろうか。

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大学時代から「こんな雰囲気のお店を出したい」と考えていた


写真:餃子屋とんぼの店内/撮影:寺西ジャジューカ

輝かしい卓球キャリアだ。

元全日本監督・野平孝雄を父に持つ野平は、両親の影響で8歳からラケットを握り始めた。中学では故・荻村伊智朗の指導を受け、そこからは東山高校→専修大学と卓球界の超名門で腕を磨くというエリートコース。1999年全日本選手権シングルベスト8、2000年全日本選手権ダブルス優勝という容易ではない結果も残している。

そんな彼が、なぜ飲食の世界に飛び込むことになったのか。

「中学生の頃から自分でチャーハンを作ったり、食に興味がありました。あと、仕事が忙しかった父は家族全員が揃ったとき、いつも外食に連れて行ってくれたんです。父は『ラーメンを食べるならあのお店』『焼き肉ならこのお店』と、こだわりのある人でした。その影響もあって、大学の頃には『現役を引退したらお店を持とう』という明確な目標がありました。練習の合間に、趣味の食べ歩きをしながら『自分がラーメン屋をやるならこういう味にするな』『こういう雰囲気のお店にしたい』って、色々考えていました(笑)」

「ここでしか生きられない」ことへの憧れ

父親からだけではない。
祖父からの影響も、“第2の人生”の方向を定めるきっかけになっている。
「母方のおじいちゃんが足袋とか靴下を売るお店を京都でやっていて、商売をしている姿が大好きだったんです。京都に行くと朝から晩までずっとそのお店にいるほどでした。色んな人と接する客商売への漠然とした憧れがありました」


写真:祖父(写真左)と野平直孝(写真右)/提供:野平直孝

「僕、どっちかって言うと現役時代は器用なタイプだったと思うんです。『俺にはこれしかない』っていう卓球じゃないし、何でもそこそこにできる選手。だから、『ここでしか生きられない』っていう人に憧れてた部分がありました。それで、コツコツやってるラーメン屋さんの店主だったり、京都のおじいちゃんがカッコ良く映った」

今で言えば、水谷選手や張本選手にぎりぎりたどり着けない選手だった


写真:現役時代の野平直孝/提供:卓球レポート/バタフライ

とは言え、野平ほどの実績を残した選手がスパッと現役をやめられるのか、という疑問が残る。辞め時の見極めに迷いはなかったのだろうか。

「スーパーサーキットが自分の卓球人生の節目だったんです。(ヨルゲン・)パーソンとか金擇洙とか、たくさんのトップ選手と対戦させてもらって。ゾラン・プリモラッツやジョニー・ファンがどういう姿勢で卓球に取り組んでいるのかを目の当たりにすることができた。世界トップの景色を見させてもらい、彼らと試合をしたことで、簡単に言えば、お腹いっぱいになれたんです」。


写真:スーパーサーキットに参戦した野平直孝(写真右から二人目)、パーソン(写真左から四人目)、Tリーグチェアマン松下浩二(右から四人目)の姿も/提供:野平直孝

選手としての自分を冷静に分析する。
「今で言うと、僕は水谷(隼)選手や張本(智和)選手のレベルにギリギリ行けない選手でした。5~20番手辺りにいる選手です。そのレベルの人たちは、3~4番手以上の世界に入ることをなかなか諦められません。だって、もう一息なんだから。でも、僕はスーパーサーキットのおかげで、ああいう選手たちと卓球をやる険しさを知ることができました」

人に喜んでもらえることの方が向いている


写真:現役時代の野平直孝(写真左)/提供:野平直孝

「卓球は相手の苦手なところ、嫌なところをついていくじゃないですか。現役時代、コーチから、もっと相手を威嚇したり、相手の苦手なプレーをとしょっちゅう言われてました」

卓球を喧嘩だと思えと指導されたこともあった。
「相手を踏み台にしてのし上がっていくこともよくわかるんですが、でも僕自身は、試合は自分がこれまでやってきたことの発表会だとも思っていて、そういう考え方は苦手でした。人の嫌がるところを付くより、僕は何か人に喜んでもらえるようなことをやりたいと、卓球しながら思ってました」

元全日本チャンピオンの言葉が胸に染みる。そして、実業団を辞め、選手を引退する。
「頑張ったらまだ卓球を続けられたと思うんです。でも、もうお腹いっぱいだったから、『今は踊り場かもしれないけど、自分の卓球はここから跳ね上がるんだ』というモチベーションは残っていませんでした」

なぜ卓球関係の仕事を選ばなかったのか


写真:現役最後の頃の野平直孝(写真右から二番目)、写真一番左が父孝雄氏/提供:野平直孝

指導者や、卓球関係の仕事は考えなかったのだろうか。
「実業団を辞めるときに、いくつかお誘いを頂いてありがたかったです。でも、昔からラーメン屋をやりたいという思いがあって、そしてゼロから新しいことをやるなら、いま始めないと、という思いが強かった」
引退後、数年のラーメン屋での修行を経て、野平がお店を出したのは32歳のときだった。

野平が営んでいるのは餃子店だが、当初目指していたのはラーメン店だった。

強くなれば勝てる卓球、強くても潰れてしまうラーメン屋


写真:「餃子屋とんぼ」の餃子/撮影:寺西ジャジューカ

名店と呼ばれるラーメン繁盛店で数年間修行した後、彼が餃子店を開業したのには、理由があった。

「卓球って強くなることが大事で、そうすれば勝てるじゃないですか?でも、ラーメンって商売だから、おいしいラーメンを作っても潰れるんですよ。『このお店、メチャクチャおいしいな』っていうことは、卓球で言えば『凄いチャンピオンがいるな』ということ。でも、そう思っていた店が普通に潰れてしまうんです。当時ラーメンブームだったこともありますが、『ええ!?強くなっても勝てないんだ……』と思って(苦笑)」。

人と喋るのが好きだから


人と喋るのが好きと語る野平直孝/撮影:寺西ジャジューカ

「あと、繁盛店のラーメン屋さんってひっきりなしにお客さんが来るんです。たまに現役時代の仲間も来てくれたんだけど、ラーメン屋さんって食べ終わった丼を下げ、すぐに次を入れるっていう回転勝負です。1人1人と接する時間が極端に短いし、喋ってられないんです。そもそも僕は人と喋ったり、ゆっくりコミュニケーションをとることが好きでした」。

当時、ラーメン屋での修行の後、行きつけの焼き鳥屋のマスターに相談したという。
「マスターに『野平くんは飲み屋さんの方が向いてると思う、何か作れないの?』って聞かれて『ラーメン屋の餃子とかは作れるかな』『じゃあ、餃子専門店にして後から少しずつメニューを増やしていけばいい。ゆっくりしてもらえるお店のほうが向いてるよ』とアドバイスもらって、そうだなと思いました」

専修大時代の思い出の吉田屋

もう1つ、彼が餃子専門店を出店したのには理由がある。
「もう閉店したんですけど、専修大学の近くにあった吉田屋という餃子屋があって。うちの父も大好きだったし、専修大学卓球部のOBならほとんどの人が行ったことのあるお店です。先輩に連れて行ってもらうなら吉田屋。だから、餃子屋っていうのは僕の中ですぐにパッと浮かんできましたね。焼き鳥屋とかもつ焼き屋とか色々あったと思うんですけど、それよりも餃子屋だなって」

大変な道を選んだと思ったことは一度もない


写真:餃子屋とんぼの外観/撮影:寺西ジャジューカ

そうしてオープンした「餃子屋とんぼ」も、今年で開店から12年目を迎える。
「今までで特に辛かったのは、東日本大震災のときでした。当時、韓国の子をアルバイトで雇っていたのですが、親御さんに『日本は危険だから帰ってきなさい』と言われて帰国して、2人体制から1人体制になったんです。でも、常連さんが『無理して接客しないでいいよ』と言ってくれて、そこからはお客さんに甘えながら、ずっと一人でお店に立っています」

大変な道を選んだと思ったことは一度もないという。
「義務じゃないし、本当に大変だったらやめちゃえばいい(笑)。やめてまた、何か見つけて全力で頑張ればいい。だから、結果的に続けてこれたのかもしれないですね。仕事が趣味みたいなもので、そういうものを見つけられたのはハッピーかなと思います」

ちなみに、「とんぼ」という店名は長渕剛の曲名からとったものだそうだ。
「長渕さんは中学のときから好きで、ずっと聴いてました。一番好きな曲が『とんぼ』ではないんですけど、『とんぼ』って覚えやすいし、1回聞いたら覚えるかなあと思って。あと、お客さんに言われて知ったんですが、とんぼって縁起のいい虫らしいですね。理由は知らないんですが(笑)」

本人は謙遜しているが、飲食店を12年続けるというのは半端なことではない。

そして、この「餃子屋とんぼ」経営の裏には、野平が卓球から学んだ経験が大きく生かされていた。

>>「卓球をやれたんだから」元全日本チャンピオンの餃子屋からのエール<野平直孝・後編>に続く)

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(取材:3月)
取材:槌谷昭人