肥後の小学生たちが本気で日本一を狙い、勝ち取った初優勝「会場の中で、うちが一番勝ちたがっていた」 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:ヒゴ鏡卓球クラブ/提供:Nittaku

卓球インタビュー 肥後の小学生たちが本気で日本一を狙い、勝ち取った初優勝「会場の中で、うちが一番勝ちたがっていた」

2021.08.27

この記事を書いた人
1979年生まれ。2020年からRallys/2024年7月から執行役員メディア事業本部長
2023年-金沢ポート取締役兼任/軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

8月18日、ロート製薬杯 第39回全国ホープス大会の女子の部で優勝したのは、熊本のヒゴ鏡卓球クラブだ。
これまで準優勝2回、3位2回と、どうしても届かなかった悲願のタイトルに、クラブ創設17年目にして初めてたどり着いた。

全国ホープス大会は、各地方予選を勝ち抜いた、1チーム3人〜4人の小学生が団体戦で争う、チーム戦としては小学生最高峰の大会だ。

「今回優勝した3人は、幼稚園の年長さんで同じ時期にクラブに入ってきたときから、日本一をずっと目指してきました」
“日本一を獲りに行って獲った”熊本のヒゴ鏡卓球クラブの秘密に迫るべく、竹本泰彦代表(51歳)にオンラインで話を聞いた。


写真:山田あかり(右)/本郷蒼空(左)ペア(ヒゴ鏡卓球クラブ)/提供:卓球レポート/バタフライ

始まりは“い草倉庫の2階”

竹本さん自身も、かつては壽屋、NEC九州などの実業団でプレーした卓球選手だった。壽屋でチームメイトだった偉関晴光氏とダブルスを組み、全日本社会人ダブルスで準優勝した経験もある。卓球選手だった奥さんと結婚した後、地元・熊本県八代市に卓球クラブを作ったのが約17年前だ。“ヒゴ鏡”というクラブ名は、南熊本、肥後の鏡町というその場所に由来している。

その出発地は、竹本さんの実家の“い草倉庫”の2階だった。
「私の実家が、い草農家だったので、その倉庫の2階に手作りで赤マットだけ敷いて卓球台を3台置いて。1階は農機具を置いていたので2階にしたんですが、屋根は瓦だけでエアコンもなかったので、夏の日中が本当に暑くて暑くて(笑)。時間をずらして練習してました」
目を細めて当時を懐かしむ。


写真:ヒゴ鏡卓球クラブの出発点・い草倉庫2階の卓球場/提供:竹本泰彦氏

過酷な環境の中でも、評判を呼び徐々に生徒が増えてくる。一年半ほど“倉庫卓球場”を続けた後、意を決した竹本さんは借金をし、新しい卓球場を作ることを決めた。
「親戚や周囲には反対されましたけどね。“卓球で飯が食えるか”って」


写真:現在のヒゴ鏡卓球クラブ練習場/提供:竹本泰彦氏

「うるさいオヤジですよ(笑)」

「子どもたちは、僕のことを卓球以外のほうがうるさいって言うと思います」と笑うのは、その指導方針だ。
学校の宿題をしていないと練習させない。お母さんから部屋の整理整頓ができていないと聞くと「まず、部屋を片付けてから練習においで」と諭す。
人の嫌がることを言うな、するな。落ちているゴミは拾う。スリッパが乱れていたら揃える。保護者の方には目の前まで行って挨拶をする。
「だって、卓球はいつか卒業するんです。その後にやっていける人間力向上のほうが大事。もちろん、日本一・日本代表は目標なんですけど」


写真:子どもたちとグータッチをする竹本泰彦監督/提供:Nittaku

卓球ノートを忘れたらボール拾い。ボールを踏んだらトレーニング。
「うるさいオヤジですよ」と自嘲するが、その情熱と確かな指導哲学で、クラブは少しずつ成長を続け、コロナ前には60名を数えるほどになった。

「八代から日本一になろう」

「八代から日本一、日本代表になろう」高い目標が、ヒゴ鏡卓球場には掲げられている。

しかし、クラブに入ってくる子どもたちは、みんな地域でラケットを始めて握る子どもたちばかり。“日本一を目指す”と言われても、戸惑うのではないだろうか。
「やっぱり先輩たちが、過去、全国準優勝が2回、3位が2回入賞している流れがあるから、親御さんも子どもたちも、これくらい頑張れば、と信頼して取り組んでくれますね」

最初に全国ホープス準優勝した2009年は、自身の次女・竹本朋世(現在、十六銀行卓球部に所属)さんもメンバーだった。


写真:歴史が紡がれてきたヒゴ鏡卓球クラブ/提供:竹本泰彦

卓球場を作って17年、並み居る強豪クラブの中で、ついに日本一を成し遂げた今回の勝因は何だったのだろうか。

戦略① チーム構成

「今回優勝した子どもたち3人は、幼稚園の年長さんからほぼ同時期に入ってきました。その時期から(団体戦を戦う)3人が揃うのはあまりないんです。最初に親御さんと子どもたちに“よし、日本一狙いましょうね”と言ったのを覚えています。子どもたちは、ぴんと来てませんでしたが(笑)、親御さんたちは“え、日本一ですか?”って」


写真:「同じ代で3人揃うのはあまりない」/提供:竹本泰彦氏

どうやってこの3人で日本一になるか、この時点で具体的にイメージしたと竹本さんは言う。
「チーム構成としては、カットマンを一人作りたい。小学生の女の子は下回転を打ちにくいので勝ちやすいですし、世界的に見ても日本のカットマンは活躍してますから」
最初に、フォア・バックなど基本練習をさせた後、3人全員にカットをさせた。その中で一番スムーズにカットのスイングができた山田あかりをカットマンにする。

「加えて、山田は頑張れる子でした。今のカットマンは昔のツッツキとカットだけの時代と違って、攻撃もやらないといけない、促進ルールも学ばないといけない、やることが多くて時間がかかるんです。頑張れる子じゃないと今のカットマンは無理なんです」


写真:山田あかり/提供:Nittaku

次に、深山稟心(ふかやま りこ)と本郷蒼空(ほんごう そら)、どちらをダブルスに使うか、それによって用具も表か裏か、などを試していった。

「うちは絶対的エースが作れないんです」
それは、竹本さん自身が「個人レッスンをしない」という哲学を持っているためでもある。当然、収入面を考えれば、卓球のコーチは個人レッスンをしたほうが安定する。
「一人を強くしても一人が喜ぶだけ。団体戦なら、3人から4人の子どもたち、お父さんお母さん、じいちゃんばあちゃん、その親戚、たくさんの人が喜べるじゃないですか。その方が僕自身も嬉しいんですよ。みんなで勝ったことを喜び合いたいんです」
根っからのチーム戦気質だ。


写真:子どもたちと喜び合う竹本泰彦監督/提供:卓球レポート/バタフライ

「今回、深山が全日本ホカバのホープスで3位になったんですけど、僕の中ではたまたまだと思っていて、それよりみんなで喜べる日本一を目指そうと」

しかし、絶対的なエースがいない以上、団体戦はダブルスで勝ってもラスト勝負になる。ラストには全国では異質やカット、いろんな戦型が来る。今回で言うなら深山と本郷どっちが対応できるのか、常に団体戦で勝つための具体的な対策を考えながらチームを育ててきた。


写真:深山稟心/提供:Nittaku

戦略② 徹底した情報収集と戦力分析

対戦する可能性のある相手チームの戦力分析も、徹底して行った。

コロナで多くの大会が中止を余儀なくされたが、2021年1月末、東アジアホープス日本代表選考会に深山選手が出場し、10位で代表メンバーに入る。その選考会に出場した子どもたちの所属チームは、必ず団体戦でも上がってくると読んだ竹本さんは、それぞれのチームで団体戦に出場する3人の情報をあらゆるところから集めた。


写真:2021年全日本ホカバでの深山稟心/撮影:ラリーズ編集部

次の大会は、7月に行われた全日本ホカバ(全農杯 2021年全日本卓球選手権大会 ホープス・カブ・バンビの部)だった。
組み合わせが出た時点で上位に上がりそうな選手に目星をつけ、保護者に頼んで会場で試合映像を撮ってもらった。竹本さん自身は選手のベンチに入るためだ。

「ALL STARさんは3人、卓桜会さん、徳増さんは2人出てました。あとはK&Mさん、石田卓球さん、マルカワさん、他も含めてたいていの上位に上がりそうなチームの選手については、私たちの保護者にお願いをして映像を撮りました」
まさにチーム総力戦の情報収集だ。

「でも、団体メンバーの3人目がわからないっていうケースも結構あって。そんなときはその県の知り合いに電話して“3人目どうなんだ、もし、しがらみがないようなら教えてくれ”ってお願いしました(笑)」

各チームが地方予選で戦ったオーダーも、わかる限り調べたと言う。
「勝負どころでのオーダーはその人の考え方が表れるので」

結果、今回の全国ホープスでも、予選で一度読みは外したが、本戦のオーダーは想定通りだったと言う。


写真:グータッチで喜び合う子どもたち/提供:Nittaku

戦略③ 日本一への意識の強さ

今回、大会直前に2泊3日の合宿を自身の卓球場で行っている。竹本さんも布団を持ち込んで卓球場に泊まり込んだ。
「あんなに長い時間練習した合宿は初めてでした。子どもたちも相当きつかったと思います。でも、日本一になるためには、必ず苦しい場面を乗り越えないといけない。合宿が終わった後、“みんな日本一練習したぞ”って伝えたかったんです。なので、精神面の準備もできていたのかなと。今回はそういうことも仕掛けました」


写真:ヒゴ鏡卓球クラブ外観/提供:竹本泰彦氏

コロナ以降、それまで当たり前だった遠征や強化練習も満足にできない日々が続いた。でも、日本一への意識とモチベーションは絶対に切らさなかった。

大会初日、会場で他のチームの旧知の監督たちや関係者を見ながら、ふと竹本さんが感じたことがある。
それを竹本さんは奥さんにこうつぶやいた。

「うちの子供たちと僕と保護者が、一番日本一になりたいと思っている」


写真:山田あかり(左)、本郷蒼空(右)ペア(ヒゴ鏡卓球クラブ)/提供:Nittaku

そう会場で実感したのは初めてだった。
「本気で獲りに行ってました。日本一になれたらいいな、じゃないんです。上位常連チームの子どもたちと見比べても、うちの子どもたちが一番、日本一になるんだという意識が強いと感じました」

大会最終日の朝も、朝7時から9時まで予め押さえていた近くの卓球場で2時間練習して、会場に向かった。

今回の全国ホープス会場は、感染対策として保護者の帯同がチームで一人だけしか許されなかった。
他の保護者は会場近くのホテルから、帯同した保護者が配信してくれる映像を見ながら応援した。子ども、保護者、指導者の3者とも「日本一になる」という意識だった。


写真:総力戦で一番高い表彰台にたどり着いた、ヒゴ鏡卓球クラブ/提供:Nittaku

日本一の涙

「日本一の瞬間の、子どもたちの笑顔はいかがでしたか」
それまで柔和な笑顔で、流暢に説明していた竹本さんの言葉が、止まった。

い草倉庫の2階からスタートしてから17年、その万感の思いがこみ上げたのか、画面の向こうでしばらくの沈黙の後、言葉を絞り出した。

「あの瞬間の子どもたちのガッツポーズと笑顔、上に上がってお母さんと握手したときの涙、最高でした」

すいませんと少し照れて、目元を拭った後、こう続けた。
「大会の最後、子どもたちに挨拶するときも、実は僕のほうが言葉にならなくて(笑)。最高の子どもたちと保護者に出会えて、子どもたちが小学生時点として最高の結果が出せた。その思いが、勝利の瞬間一気にこみ上げました」

今も、あの3人がクラブで卓球を始めた6年前の景色は鮮明に頭に浮かぶという。


写真:山田あかり(左)、深山稟心(中央)、本郷蒼空(右)/提供:竹本泰彦氏

卓球クラブをやってて良かったと思う瞬間はと尋ねると、迷わず「もう、本当に、子どもたちが勝って喜ぶ笑顔ですよ。あと、保護者の方に、泣いてありがとうございましたとお礼を言われること。うん、それしかないと言ってもいいくらい」。そして、こう付け加えて、笑った。

「私、(卓球ショップの)商売もやってるんですけど、外回り全然やらないんです(笑)。ずっと子どもたちの指導に入れ込んで。ホントに、嫁さんのおかげです」

二人三脚で卓球場を経営してきた奥さんがいなかったら、ここまでやってこれなかったと奥さんに感謝する。

「だって、僕自身なんて、飯さえ食えればそれでいいんです」

思えば、指導者の情熱や人柄は、向かい合う子どもたちのほうが鋭く見抜き、信じる・信じないを決めているのかもしれない。
子どもたちの表情は、とても生き生きとしているのだった。


写真:本郷蒼空(左)、深山稟心(中央)、山田あかり(右)/提供:竹本泰彦氏