「バカじゃないと強くなれない」 メダリスト吉村真晴、壮絶な幼少期


2016年リオデジャネイロ五輪では銀メダルを獲得し、水谷隼、丹羽孝希らとともに日本卓球の飛躍のきっかけをつくった吉村真晴。2017年の世界選手権ドイツ大会では石川佳純とペアを組み、混合ダブルスでも優勝を果たし、今年からはロシアリーグへの参戦も決めた。父に日本人、母がフィリピン人という吉村はどのような幼少期を送ってきたのか。

「僕はエリートタイプじゃない。むしろ異端児って感じ」と自身のキャリアを語る。彼はどんな軌跡を歩んできたのか。本人に話を聞いた。

(文:武田鼎/ラリーズ編集部,写真:伊藤圭)

吉村3兄弟を育てた”卓球バカ”の親父

吉村真晴笑顔
小学1年生の吉村少年にとって、最も気がかりなこと、それは「誰が助手席に座るか」ということだった。車が好きだったわけではない。元卓球選手であり、吉村3兄弟のコーチである父に最も厳しく叱られるのが「助手席に座らされたヤツ」だったからだ。卓球クラブと家の往復の間、誰が怒られるか。「真晴、助手席だ」。その言葉を聞くたびに「またかよ…」とため息をついた。要注意は赤信号で停止してから。フォームに関して厳しい叱責が飛んでくるからだ。

茨城県の中でも海に面した東海村で暮らす吉村少年の最も古い記憶は小学1年の頃に遡る。無論、ラケットを握っていた光景だ。「多分幼稚園の頃から卓球は始めていたと思います。小学生の時は平日6時から9時くらいが練習時間」だった。

場所は父である弘義氏が指導するクラブ、6時までの間は母が厳しく学校の宿題をチェックしていた。「宿題していないと親父がめちゃくちゃ怒る。まぁ卓球でもめちゃくちゃ怒られるんですけど(笑)」。卓球台の向こうから“ボール以外のもの”が飛んでくるのは日常茶飯事というからその厳しさが窺い知れる。時には「車で遠くまで連れて行かれて、そこで降ろされて一人で帰ってこい!ということもありましたね。修行のためだと思うんですけど、小学生ですから、帰れないでひたすら泣いていました」と苦笑する。「マハル」がフィリピンのタガログ語で「愛する」という意味だったのは奇妙な偶然だったかもしれない。

吉村が「一番キライ」だった練習

スパルタな父だったが卓球以外では「多趣味で、いい親父だった」という。ゴルフに釣り、サーフィンや浜辺でのしじみ採り…時には燻製の作り方も教わった。「今から思えば“なんでも全力でやる”っていう人だったんですけど、当時は恐怖の対象でしたね」。だが、些細なことから「卓球スイッチ」が入ると吉村3兄弟に緊張が走った。「言葉は悪いけど、“バカ”じゃないと、強くなれないんでしょうね。何かやってやろうという気持ち。そういう精神的なものを“肉体的な指導”で学んでいきました」と振り返る。

吉村真晴トーク

吉村3兄弟が最も嫌った練習がある。それが近くのコミュニティセンターで行われる「吉村家だけの練習」だ。卓球スペースの一画をカーテンで仕切り、父とのマンツーマンでの練習が始まる。ボールを追いかけて腰の入っていない“手打ち”をしようものなら茨城なまりの叱責が容赦なく飛んでくる。「お前、そんなんじゃ入んねっぺよ!!」いつも完璧な姿勢で打球を求められた。

「オメエ、何してんべえ!!」。練習場に設置されている網付き棒はボールを拾うためではなく、吉村たちの足をビシビシと指導するためのものになっていた。「毎日卓球をやめたいと思ってました」と激闘の日々を振り返る。

だが、吉村少年には何よりも“楽しい瞬間”があった。それが「試合」だ。幼少期から吉村は華々しい成果を残し、名門秀光中等教育学校へと進学する。そこで吉村の卓球人生は大きな転換点を迎えることになる。

(続く。次回は10月13日(金)配信予定)

撮影協力:Shakehands

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