私のネット際 〜インタビュー「プロフェッショナルと卓球」〜 石井良明 ♯2 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

連載 私のネット際 〜インタビュー「プロフェッショナルと卓球」〜 石井良明 ♯2

2017.09.13

都内を中心に展開するスーパーマーケット「成城石井」。「高級スーパーマーケット」という今までになかったジャンルを築き上げたのが石井良明氏、その人だ。慶應中等部で卓球に出会い、大学まで続けた石井氏だったが、ついに商売の世界に身を投じる。

時は“西部開拓期” スーパーの時代が幕を開ける


大学を卒業した1964年から実家の「石井食料品」で働き始めました。1927年に創業した果物中心に取り扱う食料品店です。実家の跡取りとは言え「修行」の身。なんでもやりました。仕入れや販売、経理、総務に至るまで。当時、時代はスーパーマーケットの揺籃期と言ってもいいかもしれません。世界的にも1962年にウォルマートが第一号店を出店し、「これからはスーパーマーケットの時代」と叫ばれていた頃の話です。修行時代の僕はスーパーマーケットの構想は漠然とありましたが、実際にオープンするのはずいぶん後のことです。

当時のことはさながら西部時代の開拓期のようだったと記憶しています。いかに出店攻勢をかけて駅前の好立地を抑えていくか。まさに「面」の取り合いでした。小売業界は1960年代から、激動の時代に突入するんです。

実は成城石井は完全に「後発組」でした。成城石井がスーパーマーケット業態をオープンしたのが1976年、35歳のときです。業界的には完全に出遅れていました。

今でも「やられた!」と鮮明に覚えていることがあります。それが1965年、石井食料店の目の前にOdakyu OXというスーパーマーケットができたことです。しかも面積は成城石井が85坪に対してOdakyu OXが200坪。まさに「巨人が立ちはだかっていた」というのにふさわしい船出でした。

立ちはだかる巨人、OX。いかにして戦うか


そこから頭を捻るのが経営者です。OXと同じものを売っていても勝つことはできない。品揃えも豊富だしコストダウンも進んでいる。ならばライバルがやっていないことをやってみよう。卓球だってそうでした。顧問の先生は何も卓球について知らない。おまけに卓球台も3台しかない。だから自分たちで考える。

いつだって答えはシンプルです。

最初に始めたのは「お酒」の販売でした。当時は、酒税法でスーパーマーケットではお酒を販売することが認められていませんでした。そこで輸入酒のディスカウントを始めました。成城石井の柱になっていったのがワインです。私は酒を飲みませんが、ワインだけは自分で勉強しました。オープンから10年後には直輸入を始め、17坪のオープンセラーを完備した店舗も作るまでになりました。これは大きな差別化戦略の一つでした。

そしてもう一つは「ナンバーワン」を集めること。とにかく日本中飛び回って「イイもの」を集めることにしました。とにかくいいものを探すわけです。兵庫県香住のカニや最高級のウルメイワシ、虎杖浜のたらこ…。「目利き」としての実力が問われます。中でも覚えているのが食の街・大阪のちりめんじゃこです。大型店がひしめく中に1店だけ、小さな店舗がありました。こんな小さな店が大型店の間でやっていけるということはきっと味がいいに違いない。そうして仕入れたところ大当たり。なぜ大当たりしたかは、このあと話しますが、さらに大阪では意外な発見がありました。それが東京では当時ほとんど知られていなかった徳島県の鳴門金時。これも東京で販売すると飛ぶように売れました。

導き出した答えは「倒す」ではなく「共存」


「いいものばかり仕入れると購入額が跳ね上がる。客が敬遠してしまうのでは?」という指摘も受けました。もちろんそうでしょう。成城石井だけですべての買い物を済ませようとすると年収2000万円以上の客層が対象になってしまう。だからこそ講じた戦略はOXと一緒に買ってもらうこと。今日の夕飯の中でも「1点だけ良い物を買ってみよう」「いつも使っている食材でも少しだけ贅沢をしよう」。OXとの競争ではなく共存を選びました。

ですが、最高級品ばかり並べておけばいいというわけではありません。それを痛感したのが開店から2年後1978年、鮮魚を扱い始めたときに気づいた「ちりめんじゃこ」のヒットです。最高級のマグロを販売すればもちろん、売れます。ですが干物やちりめんじゃこなどの「塩干物」に意外なニーズがあると考えました。それどころか「成城のお客様こそ」塩干物が必要だったのではないか、と考えたんです。

その理由はこうです。成城のお客様には会社のお偉いさんが多い。すると必然的に夜の接待や会食の頻度は増える。そのため家では干物やたらこなどと白米と味噌汁でササっと済ませたいというニーズがあるのでは?というわけ。そこで大阪の小さな商店にまでちりめんじゃこにも探し求め、塩干物部門を充実させました。塩干物は多いときで鮮魚全体の6割を占めるまでに成長しました。

1号店の船出を無事に終えた成城石井がどのように成長していったのか。多くの失敗を繰り返しながら、大きな時代の変化とともに成城石井も徐々に拡大していくことになります。
(第3回はこちら)