私のネット際 〜インタビュー「プロフェッショナルと卓球」〜 石井良明 ♯1 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:伊藤圭

連載 私のネット際 〜インタビュー「プロフェッショナルと卓球」〜 石井良明 ♯1

2017.08.09

取材・文:武田鼎(ラリーズ編集部)

都内を中心に展開するスーパーマーケット「成城石井」。「高級スーパーマーケット」という今までになかったジャンルを築き上げたのが創業者の石井良明氏、その人だ。

小さな果物屋が大手のスーパーマーケットを向こうに回し、独自のアイディアとひらめきを武器に互角に渡り合ってきた。

普段はメディア嫌いで有名で、ほとんど登場することのない石井氏にラリーズが取材。開口一番、歴戦の経営者が静かに話を始めた。

「経営で大事なことはね、卓球から教わったんだ。」

“卓球✕ビジネス”。その意外な接点とは。

戦後、世界を席巻した「日の丸卓球」

僕が卓球に出会ったのは中学1年生の頃。慶應中等部の1年から大学1年まで7年間、卓球と向き合ってきました。あまり知られていないかもしれないけど、当時(昭和29年)の日本の卓球は世界でも強くて有名でした。当時は荻村伊智朗選手や田中利明選手が世界選手権で連戦連勝していた時代だった。今でこそ水谷や平野が世界で戦っているけど、戦後の卓球は日本人選手の独擅場で人気のスポーツでしたね。

そんな中で始めた卓球ですが、実は中学校の部活は全然辛くなかった。それどころかのんきで牧歌的な部活でしたね。

でもライバルはいました。当時の私学リーグでは麻布が慶應にとってのライバルでした。当時の僕の戦型はペンホルダーグリップが主流の時代で。裏ラバーを使って、なんとか自分より上手い相手を倒せないか、必死になって考えたものです。最初は適当にやっていた部活だったけど高校時代になるにつれ、部活も厳しくなり、どんどんのめり込むようになっていきました。

「厳しい練習」が人を「無心」に導く

「勝ちたい」。

そう思うようになると自分たちで工夫して練習メニューを考えるようになるんです。当時、卓球台の数も中高合わせて3台しかない。だからなんとか試行錯誤して上手になろうと必死でした。これは経営の話にもつながるのですが、高校2年の夏合宿の時には意識的に厳しい合宿をしたのを覚えています。ただ厳しくやるだけじゃなくて「なぜ厳しくやるのか」、ちゃんと考えながら練習を追い込んでいく。するとはっきりとコンディションもよくなるんです。僕は国体の県予選ではインターハイ出場経験者を破って、決勝まで行くことが出来ました。チームメイトは全員敗退した状態で残ってるのは僕一人。後ろでは厳しい先輩が見ている。ある種無心になれた。練習で厳しく自分を追い込んでいれば、本番の舞台で「ビビる」ことはなくなります。

今でこそデータや科学的なトレーニングが発達していますが、当時はそういったものはほとんどありませんでした。「部活で水を飲んだら弱くなる」という精神論が支配する前の時代のことです。すべてが手探りでした。顧問の先生もあまり卓球に詳しくない。だからこそ自分たちで考案したメニューを夜の10時までやる。50人いる部活で3台しか卓球台はありません。薄暗い卓球場で3台の台を代わる代わる使って、練習終わりにラーメンを食べて帰る。これが僕の青春でした。

残念ながらその後、僕は高校2年で伸び悩んでしまいます。今でも少し後悔しているのは高2の秋にすごく大きな台風があって、練習場が潰れてしまったこと。このことで僕は練習をサボってしまった。すると後輩たちはその間に熱心に練習に取り組んで、3年の春には越されてしまった。

でも僕は後輩に抜かれても不思議とイヤではありませんでした。慶應のいいところは先輩も後輩も一緒になって練習することだった。中1の時に高2、高3の先輩たちと一緒に練習できたのはいい経験になっています。やはり体育会の部活は社会の縮図ですから。もちろん中には厳しい先輩もいます。

僕はついつい反抗したくなる性格でね…(笑)。

部員としても経営者としても納得できないことがあると開き直って言い返してしまう。すると後から「ガツン」とやられる。結局、最後は僕が謝らないといけない。社会の厳しさを部活で覚えていきました。

3年になると、今度は教える立場に立ちます。ここでも経営に大切なことを学びました。

それは「まとめる」ということです。

卓球は野球やサッカーと違って特にマネジメントが難しいスポーツだと思います。それは個人の力量が大きなウェイトを占めているから。チームメイトが強くなくても自分が強ければ個人戦では勝ち抜けるからです。そういう力学がチーム内で働いている中でいかにしてチーム全体を底上げしていくか。ましてや下級生を面倒見るということはもっとしなくなってしまう。それまで一、二年と三年は違う練習場でやっているほど分断されていました。

だから僕達の代では一番強いやつをキャプテンに据えることはしなかった。もともと慶應は先輩が後輩の面倒見がいい校風だった。そこで一番面倒見が良い人物にキャプテンを任せて全員で目標を追うことを考えました。僕も後輩の面倒を見るのは大好きでしたから。練習場も一緒にして、一丸になって強くなる。

それでも大学の先輩からは「出過ぎたことをするな」って注意されました。「強くなりゃいいじゃないか」って思ったけど、そういうわけでもない。世の中にはいろんな考えの人がいるな、と学んだんですね。でもあとで聞くとそういう度量の人間はなかなかビジネスの世界でも成功しなかった。

大学1年で怪我をしてコーチの側面から卓球部を支えることになるのですが、僕はもっと大きな仕事と出会うことになる。それが両親が経営している石井食料店の手伝いです。そう、後の成城石井になるお店です。当時はもちろん1店舗しかないし、果物を中心に扱う街の小さなお店でした。

僕はここで商売の面白さにのめり込んでいくんです。

続く。第二回はコチラ