「もう一生歩けない」卓球進学の道を奪われた少女が見つけた"天職"【高橋尚子インタビュー|中編】 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:事故直後の高橋尚子さん/提供:本人

卓球×インタビュー 「もう一生歩けない」卓球進学の道を奪われた少女が見つけた“天職”【高橋尚子インタビュー|中編】

2026.04.21

この記事を書いた人
インタビューから報道記事、選手・用具紹介記事まで幅広く担当。2019年の全日本で見た出澤杏佳選手のプレーに衝撃を受けて以降、粒高バックハンドドライブの習得に心血を注いでいる。
戦型:右シェーク裏粒

高校3年生の全日本選手権で元日本代表の四元奈生美さんに勝利し、卒業後は関東の大学進学も決まっていた高橋尚子(たかはししょうこ)さん。

彼女には、卓球選手として輝かしい未来が待っていたはずだった。

>>【記事前編】インハイランク入り、元日本代表に勝利 熊本の少女が卓球から与えられた“希望”と“絶望”

「一生歩けない」

高校3年生の全日本選手権後、高橋さんは空港から高校に戻る道中で、トラックとの追突事故に遭った。

「事故に遭ったときの記憶はほとんどなくて、ただ急に息がしづらくなって『あ、私死ぬのかな』って思ったのは、うっすら覚えています」

事故後、高橋さんは病院に救急搬送され、手術を受けた。幸いにも手術は成功し、高橋さんも事故から2日後に意識が戻った。

しかし、目が覚めた高橋さんを待っていたのは、高校生にとってはあまりにも受け入れがたい現実だった。

「目が覚めたのに、首から下がまったく動かなかったんです。『あれ、なんで?』って感じで」


写真:事故直後の高橋尚子さん/提供:本人

高橋さんは事故によって頸髄(けいずい・首の部分の脊椎を通る中枢神経の束)を損傷し、首から下がまったく動かせなくなっていた。この時点で医者は高橋さんの両親に「もう歩けない」と伝えていたというが、当時高橋さんは未成年だったこともあり、その事実は両親にしか伝えられていなかった。

「当時は『頸髄損傷です』って言われてもわからないですし、『今は動かないだけで、時間が経てば元通りになるよね』って思っていましたね」

その後、高橋さんは回復に向けた治療やリハビリを始めるも、セラピストの何気ない一言で自身の未来を完全に悟った。

「リハビリをしていたときに、『今残っている機能で、日常生活を送れるようにリハビリ頑張りましょうね』ってセラピストさんに言われたんです。そのときに『え?』って思って。そのときは詳しく聞けなかったんですが、あとで自分でいろいろ調べてみて、『あ、もう私は一生歩けないんだ』ってわかりました」


写真:リハビリは現在も続けている/提供:本人

「一生歩けない」

それは、高橋さんにとって「大好きな卓球が一生できない」という事実を意味していた。

「私にとっては、歩けないよりも『卓球ができなくなった』ことのほうが絶望は大きかったですね」

高橋さんは高校3年生まで卓球に人生を捧げ、大学も卓球で進学する予定だった。それゆえに、「もう二度と卓球ができない」と知ったときの絶望は計り知れないものだった。

健常者しか生きられない社会

事故から約2年後。高橋さんは無事に退院の日を迎えた。

「卓球ができない現実はまだ受け入れられませんでした。でも、『まずは今の自分の身体で日常生活を送れるようになろう』と思うようにしていました」

高橋さんにとっては2年ぶりの日常生活。しかし、ここでも苦しい現実に直面した。

「当たり前ですが、病院って自分のことを理解してくれているお医者さんや看護師さんばかりじゃないですか。なので、入院中は不便を感じることは少なかったんですが、家に帰って社会に出ると歯がゆい思いをすることは多かったですね」

退院後の高橋さんは車いすでの生活となった。ゆえに、階段の上り下りなどはできず、エレベーターやスロープなどのバリアフリー設備がなければ、移動も難しい。

しかし、現実には道路は凸凹していたり傾斜があったり、段差も多い。一般社会はバリアだらけなのだ。

「『車椅子で生きる社会って、こんなに生きづらいんだ』って感じました」

そんな社会の現実に直面し、退院後に抱いていた「前向きにならないと」という気持ちも徐々に失われていった。

「もちろん元気な日もあったんですが、ふとしたときに『死にたいな』って思うこともあったり…。そんな状態が3年間ぐらい続きました」

「なんで悲しい顔をさせているんだろう」

そんな生活を脱するきっかけとなったのが、お母さんの一言だった。

「あるとき、私が弱気になって、初めて母の前で『死にたい』って言ったんです。そしたら、母が『私が代わってあげたいな…』ってすごく悲しそうな顔で言われて。その母の顔を見たときに『私はなんでこんな悲しい顔をさせてるんだろう』って思って」

日常のふとした瞬間に、「自分が一生歩けない」という現実を直視すると、行き場のない辛さに襲われる。しかし、大好きなお母さんが悲しんでいる姿を見るのは、それ以上に辛い。

高橋さんは「少しずつでもいいから前を向こう」と決意した。

「事故の後は引きこもりがちになっていたんですが、友達が外に引っ張り出してくれたり、家族も暖かく見守ってくれたり、そういった支えがあって、少しずつ前を向けるようになっていきました」

ようやく見つけた“天職”

「前を向く」と決めた高橋さんは、その行動の一つとしてウェブデザイナーの仕事に挑戦した。

「仕事を始めるにしても身体は動かせないので、パソコンでできる仕事を探していました。そのなかで、『自分が楽しいと思えそうな仕事は何があるかな』と思って、ウェブデザイナーのお仕事を見つけました」

ウェブデザインは未経験だったが、1年間学校に通ってスキルを習得し、卒業後は会社に就職してウェブデザイナーとしてのキャリアをスタートさせた。

「私の身体だと毎日会社に通うのはかなり大変だったんです。なので、会社の方にも最初から『いつかはフリーになりたいです』と伝えていたんですが、『応援するよ』って言ってくださって。本当に感謝しかないですね」

その後、約1年ほど勤務した後に高橋さんは独立。現在に至るまで、ウェブデザイナーとしての仕事を続けている。

新たに直面した壁

卓球選手としての輝かしい未来が待っていた高橋さんは、10代にして「自分は一生歩けない」という現実と向き合わざるを得なくなった。その苦しみや悲しみ、悔しさは、到底10代の女の子が受け止めきれるものではなかったはずだ。

だが、そのなかで高橋さんは前を向いて生きることを決めた。その背景には、「友人や家族ら支えてくれる人たちを悲しませたくない」という強い想いがあった。

現在もウェブデザイナーとしての仕事は続け、少しでも運動機能を維持するべく定期的にリハビリにも通っている。先日もサポートを受けながらではあるが、卓球のラリーをする動画をSNSに投稿していた。

仕事も生活も少しずつ上向きだしていた高橋さん。しかし、すべてが上手く進んでいたわけではなかった。

「パラ卓球に挑戦したんですが、もう二度とやることはないと思います」


写真:高橋尚子さん/提供:本人

>>【記事後編】卓球を愛する車いす女性がパラ卓球を辞めた理由「自分なりの“卒業式”をしたい」

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