"耐える戦型"カットマンだったからこそ 御内健太郎「苦労しないと得られないものもある」 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

卓球×インタビュー “耐える戦型”カットマンだったからこそ 御内健太郎「苦労しないと得られないものもある」

2021.02.24

この記事を書いた人
1979年生まれ。テレビ/映画業界を離れ2020年からRallys編集長/2023年から金沢ポート取締役兼任。
軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

カットマンという言葉は、卓球に詳しくない人たちにも意外なほど知られている。

卓球台の後ろのほうから、攻撃を何球もしのぎ、チャンスと見れば前に踏み込み、自ら反撃する。その華やかなプレースタイルは、卓球を見慣れない人の目にも映える。

しかし、とりわけ男子において現在、国内および国際大会でカットマンが上位に残っていることは決して多くはない。ボールの変更など、ラリーがより続く方向にルールや用具が変わっていくに伴って、カットの回転量の変化では得点が取りづらくなってきたのだ。

御内健太郎、31歳。

現在、日本を代表するカットマンの一人だ。実業団の名門・シチズン時計に所属し、今年の全日本6回戦であの張本智和をあと1点まで追い詰めた実力者だ。

彼は数少ないカットマンとして、何を思いながら戦うのか。画面の向こうで、終始柔らかな表情で答えてくれた。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

中学で無理矢理させられたカットマン

――カットマンになったきっかけを教えてください
御内
:6歳から卓球を始めて、小学校時代はずっと攻撃型でした。一応、全国ホープスでベスト32くらいは行ってました。中学1年からカットマンです。

――中学でいきなりカットマンに変わったんですね
御内
:させられたんです(笑)。当時、ワルドナー選手がかっこよすぎて、真似して後ろ下がってばかりしてたら、先生に首根っこ掴まれて“そんなに下がりたいならカットマンになれ”って。

「ちょっとだけやってみます」って言って3週間くらいカットやりましたけど、何も楽しくなかったです(笑)。ただ、攻撃ができるので試合では攻撃に頼って優勝したりして、そこからです。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

サーブ力を鍛えられた高校時代

――高校は上宮高校ですね。御内選手もそうですが、上宮高校出身の選手はサーブが上手いイメージがあります。
御内
:そうですね。河野(正和)監督から“サーブ上手い選手は練習してる”って言われて、サーブ練習は一人でできる練習なので、チームとして朝練でサーブ練習をやってました。僕はたまに行けてなかったんですが。

――それはもう充分サーブがうまかったからですか?
御内
:いや、僕、朝弱かったんで、寝坊もありました(笑)。代わりに夜遅くまで残ってやってました。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

「その夜ずっと泣いていた」大きな挫折を味わった大学時代

――そして早稲田大学に進学しますね
御内
:最高に楽しかったですね。練習したければしたらいいっていう環境で、カットマンで見本となる塩野真人さんもいて、見てるだけでも楽しかったです。強い弱い関係なくみんな練習して、全員が卓球好きっていうところに自分も入った。

台も限られてるんで、その中で台に入ったときには適当なことはできない。みんながやりたくて順番待ってやってるから。そうすると集中する。ほんと楽しかったです。練習も楽しかったですし、終わった後に飲みに行ったりだとか、何してても楽しい4年間でした。


写真:早稲田大学時代の御内健太郎/提供:本人

――逆に、挫折を感じたときってありますか
御内
:1年のインカレのラストで回ってきて負けたときです。相当ショックでした。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

高校では、強くても年下が雑用という環境から、早稲田では、試合に出る人が優先的に物事を決められる。リーグ戦のラストで僕が勝って優勝していたので、僕に対して4年生が雑用をしてくれた。「これ買ってこようか?」とか聞いてくれたり「これ飲みたいです」って言ったら探しに行ってくれるとか。

ありえないなとずっと思ってたんですけど、逆に言えば、それほどまでにみんなが出る選手に対して尽くす、勝ちたいために

その中で負けたので、余計に申し訳なくて、悔しくて。夜ずっと泣いてた。そしたら(同級生の)笠原(弘光)と高岡(諒太郎)が誘ってくれて、その夜3人で遊びに行きました。負けたから洗濯してこいって言われて洗濯して、そこから遊びに行った、そんな記憶があります。あれが一番悔しかったです。


写真:2020年全日本では御内のベンチに入った笠原弘光(左、シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

同じ学年に水谷隼“異次元の選手がいるなって”

――社会人では、実業団の名門・シチズン時計に入社します。プロの道とかは考えなかったんですか?
御内
:ないですね。そもそも僕が社会人になった時にプロ選手って、水谷、岸川さん、吉田海偉さんぐらいしかいなかったんですよね。僕はワールドツアーにずっと出続ける選手でもなかったので、プロという発想はなかった。

――水谷隼選手の名前が出ましたが、ずっと同じ学年に水谷選手がいるっていうのはどういう気持ちなんでしょう?
御内
:公式戦では対戦したことないんです。でも、(水谷は)小っちゃいときからタイトル総なめにしてたんで、異次元の選手がいるなって。すごいなあ、誰が彼に勝つんだって感覚で見てました。でも水谷は“俺強いぞ”って感じではなくて人柄も優しくて、すごいなとずっと思ってました。


写真:2012全日本の水谷隼/提供:アフロスポーツ

卓球終わったときにどんな自分でいられるか

――社会人になって、仕事と卓球のバランスはどうですか?
御内
:入社したときは半々くらいで、だんだん卓球の割合が増えてきて、7:3くらいで卓球になってます。今はまた、半々くらいに戻してもいいかなと思っていて。2年前に職場異動したんです。これまでは人事部だったんですが、今は国内営業部にいて。

――卓球部でも異動は結構あるんですか?
御内
:現役中に異動はあんまりないかもしれません。今いる中では僕だけです。


写真:自社商品をPRする御内健太郎(写真左)/撮影:ラリーズ編集部

――選手の間に新しい仕事を覚えるのは大変じゃないですか?
御内
:すごく楽しいです。営業にいると、時計を触る機会があったり、こんな感じで新商品を売ろうとか、時計会社にいることを強く実感してます。

卓球しかしてこなかったんですけど、卓球以外のことも結構好きなので、わかんないことを覚えるのは楽しい。自分が生きていくために必要な知識を教えてもらえる、良い場所にいると思います。

卓球終わったときにどんな自分でいられるか、そのための仕事を増やしていきたいです。

――今後はどんなイメージで考えてますか?
御内
:良い質問ですね(笑)。実は引退など色々考えてた時もあったんですけど、今回全日本でランク入って、もうちょっとやれるんじゃないかという思いがあります。

周りから“身体の動きも全然落ちてない”と言われて自信がついたので、もうちょっとできるのかなって思ってます。


写真:抜群のフットワークを誇る御内/撮影:ラリーズ編集部

卓球する動機が変わってきた

――仕事も楽しくなってきた31歳、企業スポーツ選手としてそれでも卓球に向かう動機って何なのでしょうか
御内
:自分が強くなって世界に出るとか、僕はそういう選手でもない。大学生のときとかは自分のためっていうのが結構強かったんですけど、今、正直そういう気持ちはだいぶ薄れてきている。

自分が卓球をして会社に貢献する、僕が少しでも勝って母校に喜んでもらえる、支えてくれている家族に恩返しする、そっちの方が強いです。

夜遅くまで練習してても家族も文句を言わない、会社も練習をやりたいようにやらせてくれる。ありがたいです。会社のためだったり、職場の応援してくださる方のためだったり。自分のためというより周りのために、そういう動機にだんだん僕はシフトしていった感じです、頭が勝手に。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

――いつ頃から変わってきたと感じますか
御内
:何かがきっかけで、という感じでもなくて。でも入社直後はそんな気持ちじゃなかったです、やっぱり自分のためで。

シチズンの先輩方が“会社が卓球部に理解を示してくれてるから成績でも恩返ししよう”っていう話をしていて、そういうのを聞きながら影響されていったのかもしれないです。

苦労しないと得られないものもある


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

――カットマンだったことは、御内さんの考え方に影響を与えていますか
御内:
カットマンは“耐える戦型”です。格上とやれば打たれて打たれて、カットできずに終わっちゃう。辛いというか、苦しいというか。

練習ではカットも攻撃もしないといけないし、人の3倍努力しろと昔の人が言ってたのもその通りだなと思うくらい。


写真:御内は攻撃力も持ち味の1つだ/撮影:ラリーズ編集部

本当に苦しいんですけど、人生で何か良いことを得るためには苦しいことをしないといけない。昔はわからなかったし、子供たちには全然わからない話だと思いますけど、苦労しないと得られないものもある。

カットマンだったからこそ

――社会で耐える力が身についた?
御内:
でも、僕はもともと性格が能天気だからな(笑)。強いて言うなら“苦手なことに取り組まないといけないつらさ”をカットマンは知っている。カットが得意でも攻撃しないといけないとか、カットが上手くてもツッツキは別物とか、レシーブが苦手とか、たくさんの苦手なことに取り組んでいかないといけない。

でも、得意なことだけできて生きていくことはないと思うので、苦手なことにもチャレンジしていくのは、社会に出ると当たり前のことです。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

――最後に。カットマンで良かったですか?
御内:
はい。もし攻撃マンだったら、この年まで卓球できてないですね。高校も上宮に行っていなければ、すぐ弱くなって、たぶん卓球辞めて違うことやってると思います。

カットマンだったからこそ、いろんなチャンスをもらえた。もらえたチャンスの積み重ねで強くなれたのかなと、今は思っています。


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

誠実で、さわやかで、少し能天気で、でも粘り強く、真面目で。
たくさんの苦手を克服してきたからなのか、御内は穏やかな雰囲気を纏いながら、いくつもの表情を見せる。

つまり、カットマンなのだった。

>>卓球全日本ランカー御内健太郎が語る「今、カットマンが勝つために必要なコト」 に続く)

御内健太郎インタビュー


写真:御内健太郎(シチズン時計)/撮影:ラリーズ編集部

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写真:笠原弘光(シチズン時計)/提供:笠原弘光

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