松平兄弟に救われ明治大入学 選手と学連の二刀流で奮闘 米田裕哉、挑戦の大学生活 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:米田裕哉(明治大)/撮影:ラリーズ編集部

卓球×インタビュー 松平兄弟に救われ明治大入学 選手と学連の二刀流で奮闘 米田裕哉、挑戦の大学生活

2026.01.09

この記事を書いた人
Rallys編集長。学生卓球を愛し、主にYouTubeでの企画を担当。京都大学卓球部OB。戦型:右シェーク裏裏

小学2年生で卓球を始め、秋田県で活躍していた米田裕哉(明治大4年・秋田高出身)。

YouTubeの動画をきっかけに明治大学進学のきっかけをつかみ、選手活動と学連業務の二刀流として活動した。

ユニバーシティゲームズでも選手を運営面から支え、4つのメダル獲得を後押しした米田に卓球経歴や明治大学での活動、楽しかったエピソードについて伺った。

卓球との出会いから高校進学まで


写真:インタビューに応える米田裕哉(明治大)/撮影:ラリーズ編集部

――まずは簡単に自己紹介をお願いします。
米田裕哉:明治大学4年生で、現在は日本学生卓球連盟の幹事長を務めている米田裕哉です。

出身は秋田県で、県立秋田高校を卒業して、スポーツ推薦で明治大学に入学しました。

――卓球を始めたきっかけを教えてください。
米田裕哉:父と姉が卓球をやっていたので、小学2年生のときに「秋田卓球会館」というスポーツ少年団で始めました。

最初はボールを投げるのが楽しくて、気づいたらラケットを握っていたという感じです。

――小中学生時代の卓球はどうでしたか?
米田裕哉:小学4年生で秋田県大会で優勝して、全国大会に出場しました。その後6年生まで3年連続で出場しました。最高成績は小学6年生のときの北日本大会での準優勝です。

中学校には卓球部がなかったので、個人部という形で学校の名前を借りて大会に出ていました。練習は週3~4回、父と姉と一緒にしていました。


写真:高校では勉強も頑張るために秋田高校に進んだ米田裕哉/撮影:ラリーズ編集部

――高校は秋田高校に進学されたとのことですが、なぜ秋田高校に行かれたのでしょうか?
米田裕哉:昔から親が勉強も頑張らせたいという思いもあって地元だと一番の進学校の秋田高校に進むことを決めました。

コロナ禍と松平兄弟との出会い

――高校時代には、松平賢二選手、松平健太選手のYouTube企画にも出演されていましたよね。
米田裕哉:はい。高校1年生の終わりにコロナ禍になり、大会がなくなりました。

そのタイミングで、松平賢二さんと健太さんがYouTubeで「松平兄弟が救います」という、コロナ禍で試合のない中高生にアピールの場を作ってくださる企画をやっていたので、応募してみたんです。

すると見事当選し、一人で東京に行って撮影しました。

――YouTube出演はプラスになりましたか?
米田裕哉:はい。自分はもともと関東学生リーグでプレーすることに憧れていました。

ただ、秋田高校は強豪校ではないので、関東の強豪校に進学する場合、自分で伝手を作ってスポーツ推薦をもらわないといけませんでした。明治大学OBの高校の先輩にお願いして、進学できないかを探ってもらったのですが、当時の自分の実力的にもスポーツ推薦は難しい状況でした。

ただ、松平さんの動画を明治大学の高山監督も見てくださって、ちょうど僕が全日本ジュニアに出場が決まっていたので、「全日本の試合を見て決める」とチャンスをくださいました。


写真:明治大学の髙山幸信監督/撮影:ラリーズ編集部

――全日本ジュニアの試合はどうでしたか?
米田裕哉:1勝して、当時愛工大名電中学の中村煌和選手と当たりました。

賢二さんにも「頑張れ」と言っていただいたので、「絶対にあきらめないで戦おう」という気持ちで試合に入りました。


写真:秋田高時代の米田裕哉/撮影:ラリーズ編集部

米田裕哉:結果的にはフルゲームで負けてしまったんですけど、僕の試合がその日の最終試合だったという偶然もあり、高山監督と当時コーチだった水野さん(現・T.T彩たま監督)が試合を見てくださって、「秋田高の米田、結構やるな」という話になったそうです。

後日、明治大学のスポーツ推薦をいただけることになりました。今思い返してもいろいろなことが重なった奇跡でしたね。

明治大学で直面した現実の厳しさと成長の軌跡


写真:米田裕哉(明治大)/撮影:ラリーズ編集部

――明治大学に入学してからはどうでしたか?
米田裕哉:部内リーグでいきなり最初2連勝できて「行けるかも!」と思ったんですが、その後10連敗以上してしまって。1ヶ月後には、「レギュラーは厳しいな。とんでもないところに来てしまった」と気づきました。
――やはり先輩たちのレベルは高かったですか?
米田裕哉:当時は宇田幸矢さん、宮川昌大さん(ともに現・協和キリン)、松田歩真さん(現・日野キングフィッシャーズ)、手塚崚馬さん(現・岡谷市役所)ら、メディアで見ている選手たちが当たり前に練習場にいたので、本当に圧倒されました。

僕も練習では割と打てるんですが、試合してみるとまったく歯が立たなかったです。入部1ヶ月で現実を知りましたね。


写真:当時の明治大学には宇田幸矢や宮川昌大ら全国トップレベルの選手が多数在籍していた/撮影:ラリーズ編集部

――その環境でどう努力を続けたのでしょうか?
米田裕哉:逆に伸びしろしかないなと思いました。「秋田のみんなに応援してもらって東京に来たので頑張ろう」という気持ちでかなり練習しましたね。

当時、関東学生3位だった平賀龍生さん(現・松戸市役所)がかなり練習される方だったので、よく一緒にやらせてもらいました。

授業に行って16時くらいに寮に戻ってから1回練習して、18時半にご飯を食べてから、また夜中の12時まで平賀さんと一緒に練習することもありましたね。


写真:明治大学時代の平賀龍生/撮影:ラリーズ編集部

――その練習は実りましたか?
米田裕哉:初めての関東学生では、周りから「米田では勝てないだろ」と思われていた選手ばかりの組み合わせだったんですが、4回戦のスーパーシードにも勝つことができました。

5回戦で負けてしまいましたが、1年生としては十分に健闘した成績で手応えもありました。


写真:米田裕哉(明治大)/撮影:ラリーズ編集部

学連と選手の二刀流

――学連入りの話が来たのは、どのタイミングなのでしょうか?
米田裕哉:1年生の1、2月くらいに高山監督から学連の話をされました。学連に所属していた對馬悠さんが4年生で卒業するから、明治大学から次の人を出さないといけないということで、僕に話が来たんです。

断ることもできましたが、せっかく役職をいただいたならやってみようという気持ちで、引き受けることにしました。

学連に入ったからといってまったく卓球ができなくなるわけではないので、「学連と選手」の二刀流を目指していました。

――学連としての役割について教えてください。
米田裕哉:大会の運営が主な仕事ですが、その他にも毎年の学連登録を確認、海外交流の手配、全国大会の手続きや申請、日本卓球協会とのやりとり、会計など多岐に渡る業務を担当します。


写真:試合中も学連として運営に奔走する/撮影:ラリーズ編集部

――なかなかハードだったと思いますが、学連と選手の両立を始めた2年生では、結果はどうでしたか?
米田裕哉:最初は良いスタートを切れていたのですが、徐々に選手としてもっと卓球を頑張りたい気持ちと、学連の仕事もやらないといけない現実のギャップを感じてしまって。

秋田に帰って全日本選手権の予選で落ちたのが一番響きましたね。

「あれだけ練習したのに勝てないんだ」と思ってしまって、そこからは前のようにがむしゃらな練習をしなくなってしまいました。

3年生での転機とユニバーシティゲームズ

――3年生ではどうでしたか?
米田裕哉:3年生になったタイミングで日本学生卓球連盟の幹事長をやらないかという話をいただきました。通常は4年生がやる役職なのですが、3年生から任せていただけるというありがたいお話だったので引き受けました。

最初は右も左も分かりませんでしたが、選手としては気持ちが折れてしまっていたので、学連を頑張ろうと思って幹事長の仕事に本気で打ち込むようになりました。

――特に印象に残っている業務はありますか?
米田裕哉:本当に大変だったんですけど、本当に楽しかったのが、ユニバーシティゲームズです。


写真:ユニバーシティゲームズでは4つのメダルを獲得/提供:米田裕哉

米田裕哉:準備が就活の時期とがっつり被ってしまって。授業、就活、ユニバーシティゲームズの準備と、毎日スケジュールが埋まっている状態で、結構しんどかったです。

全日学が終わった3日後にJOCから書類を出すよう言われたり、あちこちから連絡が来て返信したり、徹夜した日もあり大変でした(笑)。

――そのなかでも楽しかったというのはどういうところですか?
米田裕哉:選手のベンチに入れたり、中国選手に勝った場面に立ち会えたり、いろいろ心を動かされました。選手として自分もまた頑張ってみようと思える大会でした。

自分もSNSで速報を更新して日本のファンに向けて発信していたのですが、選手たちが「米田さんがSNSを常に更新したり、JOCとやりとりしてくれたり、本当に頑張ってるから僕たちも頑張ります」と言ってくれて、とても嬉しかったのを覚えています。

結果として金メダル2つ、銀が1つ、銅が1つで、メダルを4つ獲得できました。

大会後には、選手たちからタンブラーとメダルに僕の写真が入ったものをプレゼントしてくれて、すごく嬉しかったですね。


写真:受け取ったプレゼント/提供:米田裕哉

大学生活を捧げたアナウンサー就活

――就活時の話についても聞かせてください。
米田裕哉:当初はアナウンサーを目指していました。

きっかけは、水谷隼選手と伊藤美誠選手の金メダルを獲得した試合の実況でした。

何気なくテレビを見ていたんですが、実況の方がすごく試合を盛り上げている姿を見て「かっこいいな」と思い、「自分もアナウンサーになって卓球の実況をしたい」と思いました。

――アナウンサー就活はいつから始めたのでしょうか?
米田裕哉:1年生の秋からアナウンススクールに通い、3年生の早期選考で東京のキー局から応募していました。

ただ、ことごとく落ちて、本選考もダメでした。


写真:アナウンサー就活は苦戦が続いた/撮影:ラリーズ編集部

――その後は、どういった就活をしたのでしょうか?
米田裕哉:アナウンサー就活をやめて、自分の性格を見つめ直して、仕事をバリバリできるベンチャー系を志望しました。

30社ほど受けて内定いただいたのが3社ほどでした。その中の人材系のメガベンチャーに就職を予定しています。

――進路に悩む学生も多いと思います。就活を終えた米田選手からアドバイスをお願いします。
米田裕哉:就職活動の早期化が非常に進んでいるので、4年生から就活を始めると出遅れてしまいます。

まずは早めに動き出すことが大事だと思います。

何をすればいいのか分からないなら、就活のプロに相談しながら進めていくのがいいかなと思います。

社会人卓球と今後の展望


写真:ユニバーシティゲームズで卓球熱が復活/撮影:ラリーズ編集部

――社会人になっても卓球は続ける予定ですか?
米田裕哉:そうですね。ユニバーシティゲームズの男子団体準決勝の横谷晟選手の試合を見て、改めて卓球熱が再燃したんです。

「自分も熱い気持ちでプレーしたい」って思いました。

やっぱり卓球は好きですし、しばらく練習量は減っていましたが、改めて頑張りたいなと思いました。

――卓球での目標はありますか?
米田裕哉:1年生の時に目標にしていた全国大会ランク入りですね。

結局届かないまま大学卓球を終えてしまったので、難しいとは思いますが全日本社会人でランク入りを目指して、仕事と両立しながら頑張っていきたいと思います。

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