日本代表選手以外の卓球選手の進路を、どれだけ知っているだろうか。
現在早稲田大学4年、エースの五十嵐史弥(いがらしふみや)は、日本人として初めてイタリアの卓球リーグへ挑戦する。
卓球選手としては珍しい180cm超の恵まれた身体から繰り出すパワフルでピッチの早いプレーで知られ、2年生時には関東学生選手権で優勝も果たした。木造勇人や髙見真己ら同世代を代表するプレーヤーの一人である。
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
日本の若き才能が国内に飽き足らず、海外に挑戦の場を求めたように思うかもしれない。
だが、少なくとも、きっかけは逆だった。
五十嵐自身は、卒業後も日本でプレーするつもりだった。
しかし、行くはずだった名門の実業団は、来年度の卓球選手採用を控えることに決まった。
コロナは、これまで卓球界を支えてきたすべての分野に影響する。
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
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「無理をすると折れてしまう」
その知らせは、大学3年秋、2020年9月全日本卓球選手権の予選が終わった1週間後、突然やってきた。
「放心状態でした。これからどうしようと色々相談したんですが、何も決まらなくて。とりあえず、いまできることは11月の全日本学生選抜で結果を残すことだと思って、朝から夜も遅くまで練習して。なんか、忘れたくて」
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
しかし、試練は続けてやってくる。
「それがいけなかったんでしょうね。試合の2日前に怪我してしまって。歩くのも、呼吸するのさえつらくて、監督にも棄権しますって伝えて」
痛めたのは背中の肋骨にほど近い箇所だった。「無理をすると折れてしまう」医者にも釘を刺された。
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
でも、このままだと後悔する、と五十嵐は思い直した。
当日までできることをすべてやろう。でないと、この2ヶ月間悩みながらも、練習に無心で打ち込んだ自分に対して申し訳ない、と思った。
旧知のトレーナー志望の同級生に帯同を依頼し、会場近くのホテルを自分で予約、前日入りしてマッサージを入念に施してもらった。
結末を先に言うならば。
満身創痍で挑んだこの全日本学生選抜、五十嵐はベスト16まで勝ち進んでランク入りを果たした。
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
「結果的には良かったです、やっぱり痛かったですけど。ロビング上げられたら打てないし、レシーブもチキータができない、でも意外とできることもありました」
試合中はアドレナリンのおかげか耐えられたが、試合後は痛みが激しくなり、トレーナーにマッサージしてもらってアイシングしての繰り返しだった。
「寂しかった」
寂しかった、と、その進路が白紙に戻った後の数ヶ月の心境を表現する。
「一人でいる時間がすごい寂しくて、練習終わってもずっと部室に残って、友だちとご飯食べに行ってたくさん話して。次の日もまた朝から練習して」。
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
闘争心あふれる激しいプレースタイルと、率直で繊細な精神性が共存するところが、五十嵐史弥という卓球選手の魅力だ。
五十嵐の卓球の原点
五十嵐は卓球のトップ選手には珍しく、両親のいずれも卓球経験者ではない。
地元山形の長井ジュニアスポーツ少年団に、母親の知り合いのコーチがいたからという理由で卓球を始める。
小学6年のホカバ(小学生の全国大会)で自己最高のベスト8に入り、青森山田中学・高校の吉田安夫総監督から誘われ“憧れの”青森山田中学に入学する。
山田では2学年上に、後の全日本チャンピオン・及川瑞基や三部航平など、同世代のトップ選手が集っていた。「近くにお手本や目標になる選手がいっぱいいて、とても恵まれた環境でした」。
写真:青森山田中学時代の五十嵐史弥(最前列)/提供:本人
しかし、その後、青森山田はそれまでのような卓球部強化ができなくなったため、五十嵐は中学三年の引退後に地元・山形の中学に編入、高校は石川県の強豪・遊学館に進学する。
「結果もそこまで残せてないのに、すごく大切に育ててもらった」と振り返る遊学館では出雲卓斗、三上貴弘ら同世代トップクラスの同級生たちと切磋琢磨しながら腕を磨き、高校3年のインターハイでは団体準優勝、出雲と組んだダブルスで3位入賞するまでに力をつけた。
頭で理解してから身体に移す
急成長の理由の一つに、遊学館のコーチ・金谷昌宣先生との出会いも挙げる。
「理論的な指導でした。僕は小さいときからあまりセンスがなかったので、頭で理解してから身体に移す、という指導法が自分にぴったりハマりました」
うーん、例えばと言って、身振り手振りで説明してくれる。
「フォアドライブ一つとっても、最初に強く当ててから回転をかけるのか、それともボールに先に回転をかけてから前に打つのかで打法はぜんぜん違います。フォームを見て真似するだけじゃなくて、最初に頭でその理論を理解してからやると、結構できるようになっていって、僕には合ってるなと思いました」
写真:五十嵐史弥(早稲田大学)/撮影:槌谷昭人
「お前、どこ行きたいんだ」「早稲田です!」
そして、かねてから志望していた早稲田大学へ進学する。
高校の世界史の先生からの「五十嵐、お前どこ行きたいんだ」「早稲田です!」という掛け合いが、クラスの恒例になるほど、いつも口にしていた早稲田大学だった。
「早稲田の卓球部は、大島祐哉さんが自分で頑張って頑張った分だけ結果を出しているというイメージでした。入ってみて、そのイメージ通りでしたね。」
写真:2013年ジャパンオープンでの大島祐哉/提供:ittfworld
五十嵐の判断基準は、自分が考え、自分で決め、自ら奮起できる経験が積める場所かどうか、だ。
「でも入ってから知ったこともあって」五十嵐は柔らかい笑顔を見せた。
「早稲田は、勉強で入ってきた人の卓球への愛情がすごくって、“練習したいです”ってお願いしたら、いつでもやってくれる先輩がいっぱいいた。それは幸せなことでした」
写真:五十嵐史弥(早稲田大)/撮影:ラリーズ編集部
“言われたことを器用にこなせるタイプではない”と自身を分析する五十嵐。しかし、自ら考え、経験したことからは、人一倍多くのことを学んできた。
「そのぶん、回り道をしてきたなとも思いますけどね」
そして、五十嵐が次に選んだのが、日本人初のイタリア卓球リーグへの参戦だった。
写真:五十嵐史弥(早稲田大)/撮影:ラリーズ編集部
(>>五十嵐史弥、イタリアへ】カラーラには“卓球バカ”がいる イタリアリーグ徹底解剖 へ続く)