不滅の大記録でも「水谷隼は倒れてくれなかった」 31歳・笠原弘光、水谷世代に生まれて | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:笠原弘光(シチズン時計)/提供:笠原弘光

卓球×インタビュー 不滅の大記録でも「水谷隼は倒れてくれなかった」 31歳・笠原弘光、水谷世代に生まれて

2020.08.15

この記事を書いた人
Rallys編集長。学生卓球を愛し、主にYouTubeでの企画を担当。京都大学卓球部OB。戦型:右シェーク裏裏

もし他の世代に生まれていたら、どうなっただろうか。意味のない“if”を考えたくなる選手がいる。

笠原弘光、31歳。

水谷隼と同世代に生まれたが故に、水谷の眩しい“光”が必然的に作る“影”で、戦い続けた選手だ。

対水谷の公式戦通算成績は0勝。「シングルスが15敗ぐらい、ダブルスと合わせたら20敗ぐらい」と苦笑する笠原は、幾度となく同世代の傑物にタイトルを阻まれてきた。

今回は、“水谷世代”笠原の卓球人生を紐解いていく。笠原の歩んできた道は、水谷の存在なくしては語れないものだった。

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「卓球辞めろと1万回言われた」

笠原が卓球を始めたのは9歳の頃、実業団・松下電器卓球部の監督を務めていた父・一也さんの影響だ。両親ともに元卓球選手の卓球一家に生まれ、昔ながらの厳しい指導を受け育った。

「親は本当に厳しかったです。『卓球辞めろ』とたぶん1万回ぐらい言われました」と懐かしそうに当時を振り返る。卓球選手として生きていく厳しさを知っている両親の叱咤激励を受けながら、笠原は腕を磨いていった。


写真:2020年全日本選手権での笠原弘光(シチズン時計)。30歳を越えた今もトップクラスでプレーする/撮影:ラリーズ編集部

小学6年生で兵庫県代表として出場した全日本選手権ホープスの部(小学6年生以下)で、笠原と水谷の戦いの歴史がスタートする。初対戦は水谷に軍配が上がり、ここから同世代の高すぎる壁に、笠原は悩まされ続けることになる。

「倒れてくれなかった」 高くそびえる水谷隼という壁

小学校を卒業し、笠原は兵庫・報徳学園中に、水谷は青森山田中へと進んだ。

水谷と同期の“水谷世代”は、松平賢二(現・協和キリン)、御内健太郎(現・シチズン時計)ら多くの猛者が名を連ねるハイレベルな学年となっていた。

そんな中、笠原は2002年の全日本卓球選手権大会カデットの部(13歳以下)の男子シングルスで優勝を果たす。ただ、このときは準決勝で松平が水谷を下し、その松平に笠原が勝利しての日本一だった。

中学卒業後、京都の名門・東山高校に進んだ笠原は、そこでも青森山田高校・水谷の壁に阻まれ続ける。

同学年である以上、お互いが全国大会を勝ち上がれば必ず対戦する。高2では、インターハイのシングルス・ダブルス、全日本ジュニアシングルスと3度宿敵に苦杯をなめた。


写真:現在は実業団のシチズン時計でプレーする笠原弘光/提供:笠原弘光

「倒したかったんですけど、倒れてくれなかった。水谷の壁は高かったですね…。高校のときは何しても向こうの方が上だなという感じがありました」。

笠原が東山高校で残した最高成績は、高2のインターハイシングルスベスト16、全日本ジュニアベスト8。奇しくも水谷に敗れた大会での成績だった。

前人未到の関東学生リーグ54勝2敗を記録

大学は関東の強豪・早稲田大学の門を叩いた。ここでの活躍が「笠原弘光」の名を卓球界により知らしめることになる。

笠原は早稲田の4年間をこう回想する。「一番練習しました。授業行って練習行っての繰り返しで全然遊びもしなかった。なんか大学入ったらいけるんじゃないかという謎の自信もあったんですよ。練習やればやるだけ勝てるぞ、みたいな」。

1年目からレギュラーの座を掴み取った笠原は、リーグ全7試合を前後期4年間出場し続けた。関東学生リーグ通算成績は圧巻の54勝2敗、全試合出場でわずか2敗という前人未到の記録を打ち立てた。

この偉業について笠原は「2回負けてなかったらもっと良かったんですけど(笑)」と自嘲気味に話す。

そう、この2敗の相手こそが水谷だ。

「早稲田の笠原」と「明治の水谷」

青森山田高校で世界卓球代表に選出され、全日本選手権でも史上最年少優勝(当時)を果たした水谷は、早稲田と同じ関東学生リーグ1部に所属する明治大学に進学していた。

笠原がリーグで水谷と初対戦したのは1年生の後期だ。「攻撃マンよりチャンスがあるし、水谷に勝てるんじゃないかと当時早稲田で一番強かった塩野さんを当てにいった。当然1番に水谷が出てくると思っていたら3番で出てきた。『ウソやろ。それはないわ』と思いましたね」。3番にオーダーされていた笠原は敗戦を喫した。

2戦目は、大学生活の集大成である4年の秋リーグ最終戦だ。明治大と早稲田大は全勝で並び、勝った方が優勝という天王山だった。

「正直最後はしょうがなかったんですよ、誰もが1番で戦えって感じだった。僕もやりたかったですし」。1年生のときとは違い、正面からぶつかりに行った。


写真:現在はシチズン時計の主力として活躍する笠原弘光/提供:笠原弘光

「早稲田の笠原」と「明治の水谷」。大学最後の優勝を懸けたリーグ戦、1番のエース対決は、水谷が11-7,12-10,12-10のゲームカウント3-0で勝利し、そのまま明治が優勝を掴んだ。

笠原の通算54勝2敗は、関東学生リーグの歴史に刻まれた大記録になった一方で、“水谷に勝てない”という笠原の卓球人生にも残る記録となった。

笠原が手にした日本一「勝って泣いた試合はあれぐらい」

同世代の怪物・水谷に阻まれ続けてきた笠原だが、大学時代、日本一のタイトルを手にしている。大学3年時の全日本大学総合卓球選手権大会・個人の部(通称、全日学)だ。

笠原は前年度の同大会決勝で水谷に屈し、タイトルを逃していた。そして、前年優勝した水谷はこの大会に出場していなかった。

「自分が大本命の年で、久しぶりに全国タイトルを取れる、優勝したいという気持ちがありました。全日学めがけて、それしか見ずにやってきた」と並々ならぬ覚悟で大会に臨み、準決勝で上田仁(当時青森大)、決勝で伊積健太(当時中央大)を下し、悲願の日本一に輝いた。


写真:笠原弘光(シチズン時計)/提供:笠原弘光

「試合する前から負けられないと毎回思ってるんですけど、苦しい試合もあって、解放されて泣いちゃいました。ほんとに優勝できて良かったという気持ちが大きかったです。勝って泣いた試合はあれぐらい」と笠原も感慨深げに振り返った。

笠原が大学日本一を掴み取った2010年、水谷はすでに全日本5連覇を成し遂げていた。大学卒業後、笠原は実業団へ、水谷はプロへとそれぞれの道を歩むこととなる。

だが、運命か宿命か。社会人3年目、25歳の全日本シングルス5回戦で2人は相まみえ、当時無敵を誇っていた水谷に対し、笠原は勝負をかけた。

水谷隼を追い詰めた試合の裏側 “じゃんけん研究事件”の真相<笠原弘光#2> に続く)

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