『僕は卓球エリートではない』 上田仁“雑草”からの成り上がり


長年に渡る自己対話、見えてきた自分の波

2月の卓球チームワールドカップで現地の実況に“Business Man”と評された上田仁。大一番でもブレない精神的な強さはどこからくるのだろうか。

「僕は割りと冷静に自分を客観視するタイプ」と語る。上田の場合、その度合いは尋常ではない。「自分をRPGの主人公みたいに見れる時があるんです。HPがどれくらいでMPがどれくらいで」。いわゆる“メタ視点”だ。一年を通して、自分の調子を客観視した結果、練習日程や練習量によって好不調がわかるようになってきた。

例えば上田の実績として語られる全日本社会人三連覇についても「あの大会期間って、試合の日程が重なるのでいつもそこで一回調子を崩すんですよね。で、ちょっと空いて少しゆっくりする期間があってから大会に臨む。だから調子がいいんです」。

ここまで自己分析を徹底した上田だからこそ導き出した答えがある。「メンタルの上がり下がりの激しい選手って、ただ自分をうまく理解できていないだけなんですよ」。

長年にわたって自己対話を繰り返し、卓球選手としての実力を磨いてきた上田だが、そのルーツはどこにあるのか。「僕は他の選手みたいに卓球エリートじゃないですよ」。淡々と振り返るが、そこには熱い思いがある。

偉大な姉と同期に囲まれた幼少期。“雑草”としての始まり

上田は京都府舞鶴に4きょうだいの末っ子として1991年に生まれた。父は水泳選手だった。ラケットを握ったのは3歳の頃。意外なきっかけから卓球と出会った。

「長男と長女が聴覚障がいを持っていて、耳が聞こえないんですよ。野球などのスポーツをやらせてみたのですが、コミュニケーションが取れず、うまくいかなかったみたいです。そこで親が卓球をやらせたところ、のめり込んでいったんです」。

いつしかリビングでは、言葉を交わす代わりにピンポン玉のラリーが行き交うようになり、家族の中心を卓球が占めるようになった。3歳の仁少年がラケットを握るのも必然だった。

ちなみに、長女の上田萌は卓球選手としての才能をいち早く開花させた。日立化成の社員として聴覚障がい者のためのスポーツ競技大会、デフリンピックで金メダルを獲得、上田仁がまだ頭角を現す前は“萌さんの弟さん”と言われるほどの有名選手だった。

小学校にあがって本格的に卓球に打ち込み始めた上田は姉とともにその才能を開花……させたわけではなかった。「僕は小学校の時は鳴かず飛ばずでした。というよりもいわゆる“卓球エリート”ではなかったですから」。当時、上田の同期には燦然と輝くスターがいた。松平健太である。通称「マツケン」の相性で親しまれる松平は上田に取っては到底歯が立たない相手だった。松平が世代を代表する“卓球エリート”だとすれば、さしずめ上田は“雑草”といったところだろう。「当時はとんでもない力の差がありました」。

小学校時代の成績は、上田がたった一度だけ16位になったことがあるのに対し、松平は全日本のバンビ、ホープスで優勝している。後に二人は卓球名門校の青森山田へ進むことになったのはたった1試合の偶然だった。「たまたま松平と僕がフルゲームのいい試合をしたんです。それを見ていた吉田監督が『誰だあれは』と」。

「埋もれたくない」必死に重圧に耐えた中学時代

「自分はエリートではない」と語る上田仁(シェークハンズ)
写真:伊藤圭


当初は戸惑いながらも思い切って青森山田の門を叩いた。(なお、松平は中学1年の途中から青森山田に転入)そこで上田は打ちひしがれる。自分より上のメンバーが3人もいたのだ。「全国2位、3位、4位のやつらが揃ってきてたんです。最初の目標は打倒松平ですらない。そもそもレギュラーに入ることでした」。

とにかく必死で卓球漬けの日々を送る上田だが、練習は裏切らなかった。「後で気づいたんですが、青森山田の中で埋もれないように必死でもがいてるってことは要するに日本トップの連中にもまれてるってことなんですよね。対外試合をすると意外と勝てたんです」。それまでベスト16止まりだったが、中1の全日本カデットではベスト4に入るほどの活躍を見せた。

だが、「勝ち慣れていなかった」という上田はとたんに弱気になってしまう。「次勝てなかったらどうしよ、とか思ってね。初めての入賞を経験したらプレッシャーを感じてしまって。今から考えると入賞くらいで何を満足してるんだって話ですけど、当時の僕からするとすごい重圧だった。他の卓球エリートたちなんてそんな重圧、小学生のときにとっくに克服してるんですけどね」。

加えて中学1年からの寮生活も上田にとっては重圧だった。上田は中学2年の頃には「辞めたい」「帰る」と漏らしていたという。

“雑草”がエリートと並ぶ時

上田が自信をつけ始めたのは中学3年生の頃だ。ジュニアの国際大会メンバーとして選出されるようになり、海外で試合経験を積み始めたのがきっかけだ。「海外ってフォームぐっちゃぐちゃで、癖のある球を打ってくる選手もいる。とにかくやりづらくてしょうがなくて、始めは全然勝てなかった」。

日本の選手は指導者や学校に応じてスタイルが形成されることが多い。フォームやテンポを崩してでも打ち込んでくる海外選手は日本人選手とは対照的と言える。「そこで、なぜ勝てないかを突き詰めて、海外の選手にも勝てるようになってくると、自信がついてきたんです」。

こうして自信を付けた上田、高校に進むと「中学で入部した時、自分より上だったやつは抜きました」という。入部からわずか2年で松平と並び、「青森山田の2枚看板」と称されるほどに力を付けた。雑草とエリートが並び立ったのだ。「友情・努力・勝利」を地で行く少年漫画の王道のような展開だ。

負けたから気づいた、プロ転向への“覚悟”

プロ転向を決意し、上田仁(シェークハンズ)の決定力へのこだわりはより高まった
写真:伊藤圭


派手さはないが、着実に積み上げていくプレースタイルは上田の言葉を借りればこんな感じだ。「男子って台から離れて大きくラリーすることって多いと思うんですけど、僕はそういう大きいラリーはあまり得意じゃないんですよ。僕はそこまで持っていくまでの“仕掛け”が得意。サッカーでいうと、スルーパスやアシストが得意なんですよ」。だからこそ課題は見えている。「まだ決定力に欠けるところはありますね。“仕掛け”は得意だから先手は取れる。あとは仕留めるだけの決定力を身につけたい」。

上田がここまで決定力にこだわるようになったのはやはり「プロ転向」が背景にある。「今年の全日本ダブルス決勝で負けたことが(プロ転向の)最後の決め手でしたね。同じ実業団の吉田(雅己)選手と組んで出たのですが、水谷・大島選手の木下グループペアに負けました。彼ら2人からプロとしての “覚悟”みたいなものを感じたんです」。

張本智和を始め、若手の台頭が著しい男子卓球にあって、現在26歳の上田のプロ転向を遅いと見るむきもある。だが、いつだってヒーローは、遅れてやってくる。「プロ転向するか悩んでいた頃に比べてスッキリしています。経験も体力も今がピーク。あとはやるだけ」。そう語る顔は晴れ晴れとしている。

文:武田鼎(ラリーズ編集部)
写真:伊藤圭

上田仁インタビュー第1弾、第2弾はこちら

第1弾:日本リーグのエース、上田仁、プロ宣言。「転機となったゴジとの1試合」
第2弾:チームワールドカップ韓国戦、大逆転劇の裏側で上田仁が迎えた“2つの山場”

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