「ミックス。」の技術指導で活躍 陽陽さんの"熱い"卓球への思い | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

卓球インタビュー 「ミックス。」の技術指導で活躍 陽陽さんの“熱い”卓球への思い

2017.10.30

文:武田鼎

東中野駅から徒歩2分、下町情緒があるこのまちに「YOYO TAKKYU」がある。平日夕方になると子どもたちが「未来の水谷」を目指してこの場所を訪れる。「まずは体操から始めよう」。そんな掛け声とともに子どもたちは練習を始め、競うように腕を磨く。さらに上達に一生懸命な卓球愛好家も毎週のようにこの場所へ通う。この卓球教室を運営するのが川口陽陽(かわぐちようよう)さんだ。卓球の名門・高知県明徳義塾を卒業し、強豪・専修大学から実業団でプレーし、指導者の道へ。「陽陽さん」の愛称で親しまれる彼は、華やかなキャリアを歩んできたように見える。だが、その道程は決して「洋々」なものではなかった。

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過酷な6年間の寮生活

奈良県生まれの陽陽さんが卓球に本格的に打ち込んだのが高知県明徳義塾中学校だった。1995年に入学したスポーツ進学校だった明徳義塾、そこにはそうそうたるメンバーがいた。「1つ上の代に朝青龍さんがいて、1つ下に琴奨菊がいたんです。一緒にトレーニングする仲でしたね」。卓球部の入部にあたっては坊主頭が必須だった。だが、「坊主頭すらカッコイイと思っていました」。

中学1年から高校3年までの6年間、4人部屋での「過酷な寮生活」が始まった。「もちろん夜は外に出ちゃ駄目。他にはウォークマン聞いちゃ駄目とか。逃げ出すやつもいました」それだけではない。毎日朝6時40分の起床と掃除が終わると旗を持って走らなければならなかった。「グラウンドで全員で“わっしょいわっしょい”って声出して。もちろん朝青龍さんも声出していました笑。9時から3時半ぐらいまで授業してそこから7時まで練習。夕飯を食べて8時ぐらいから夜間練習でした」と振り返る。ハードな練習の甲斐もあり、全国高等学校卓球大会では団体でベスト4に入るなど結果を残した。

進学先の専修大学でも選んだのは卓球だ。卒業後には愛媛県伊予鉄道に就職した。「当初は実業団ができるって話を聞いていて就職したんですけどなかなかできなかった」。夏はプール、冬はスケートリンクでの作業員として働いた。卓球が出来ずにジリジリとした思いを抱く陽陽さん。そんな時手に取ったのが卓球専門誌である「卓球王国」だ。「『卓球王国』を見てたらみんな日本リーグ出てる。で、『俺もいけんじゃないか』って思うようになって…」

そんな葛藤に頭を悩ませた陽陽さんが転職先に選んだのが原田鋼業だ。「自分を限界まで追い込んで、挑戦してみたい」という思いだった。原田鋼業は鋼板の加工販売を手掛け、日本卓球リーグに所属する実業団を持つ。「この時の2,3年が一番成長したっていう自覚があります」。ここから陽陽さんの卓球人生は大きな転換点を迎える。

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「俺何のために卓球やってるんだろう」自問自答の日々

原田鋼業に入社した陽陽さんを待っていたのは過酷な現場仕事だった。毎日ヘルメットをかぶって黙々と現場で働く。「入ったばっかりのときって気を遣っちゃって夜遅くまで働いちゃう。現場でもうふらふらじゃないすか。練習もできないしどうしようかなっていうふうな感じ。仕事自体も大変でした」。現場仕事が終わると疲れ切った体に鞭を打って卓球の練習を始める。「俺は何のためにここ来たんだ」と自問自答するほど肉体的・精神的にも大変だったという。

その上、原田鋼業へ転職して1年目、卓球部のメンバーが相次いで退職してしまう。「この時が一番辛かったですね」。仕事と卓球の両立。実業団の選手の多くが頭を悩ませる問題に直面していた。「結局引退したOBの方に復帰いただくなどして、なんとかチームは維持できましたけどこれは『何かを変えないと』っていう思いでした」と語る。

この逆境が陽陽さんを強くした。「練習場の近くにきつい坂があるんです。その一番上まで走って、風景見て『俺はここで一生終わりたくない』って思って自分を奮い立たせました」。社員としても部員としても思うように結果が出せない自分を鼓舞した。卓球部のキャプテンに就任した陽陽さんが着手したのが「働き方の見直し」だ。

「周りの人の顔色伺って無駄に残業したりするのは辞める。自分の仕事が終わっていれば『お先に失礼します』とはっきりって卓球の練習に打ち込むようにしました」。その代わり、部員には「絶対にサボるな」と話した。「現場の人が残業終わるまでは練習は辞めませんでした。もちろんパフォーマンスって言っちゃうと聞こえは悪いですけど、ちゃんと卓球でも頑張っているところを見せようと思っていました」。

最初はなかなか支持を得られなかったが徐々に周りの反応が変わる。「試合で勝つと応援に変わっていきました」という。

そんな折、ターニングポイントが訪れる。「卓球のコーチにならないか」という誘いを受けたのだ。「これが本当に性に合っていて。もう初めの3カ月で『あ、俺この仕事しよう』と思いました」と明かす。それまで卓球プレイヤーだった陽陽さんがなぜ指導者の道へ進もうと考えたのか。「来てくれる人って好きで来るじゃないすか。普通の仕事って営業かけたら嫌な顔されることもある。それに上手くなると明らかにいい顔するんですよね。それが嬉しくて」。月収という安定した地位を捨て、東中野に「YOYO TAKKYU」を開くことになる。

「もちろんこの仕事って水商売なところもある。人気商売だったりするんで。やっぱり常に不安はあります」。やがてYOYO TAKKYUのオープンから3年後、意外な依頼が訪れる。「卓球の映画を撮るんです」という一本の電話がかかってきたのだ。それから数ヶ月後、「YOYO TAKKYU」に俳優の新垣結衣と瑛太が訪れることになるとは当時の陽陽さんは思いもしないことだった。

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写真:伊藤圭