取材・文:福田由香
ふんわりしたビジュアルと、しっかり回転量のあるドライブ。
川﨑瑞恵(かわさき みずえ)は、デフ卓球の日本代表として世界で活躍する選手だ。デフの全国大会ではシングルスで優勝2回、準優勝4回で、去年行われた世界選手権の代表選考会は全勝で優勝。デフリンピックではこれまでに団体とダブルスで銅メダルを獲得し、次はシングルスのメダルを狙っている。
さて、ここまででほとんどの方がこう思っただろう。「デフって何?」と。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
音のない卓球
デフ(DEAF)とは、聴覚に障がいを持つ人のことだ。つまりデフ卓球は聴覚障がい者の卓球で、デフリンピックは聴覚障がい者のオリンピックを指す。パラリンピックとは異なる時期に開催され、コロナウィルスの感染状況次第だが、次回は2022年5月ブラジルでの開催が予定されている。
川﨑は生まれつきの感音性難聴で、音はわずかに感じることしかできない。
「卓球の音」を意識したことがないので、聞こえないことによる弱点は自分でもわからない。「リズム感よく打つのが苦手」だと自覚しているが、それも障がいとは関係ないと彼女は思っている。
指導するコーチは「一番にスイングがきれいだと思った。運動神経も体格もよくて、それを生かしたフォアハンドが魅力。世界で戦える選手」と話すが、実は幼い頃からエリート選手として歩んできたわけではなかった。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
「悔しい、もっとうまくなりたい」
川﨑は小学生までは水泳やダンスをしていたが、母と姉が卓球をしているからと、中学で卓球部に入った。しかし、頑張って強くなるというよりはみんなで楽しくピンポンする部活で物足りなかったため、高校以降、卓球を続ける気はなかった。
それが変わったのは中学3年のとき、障がい者の国体にあたる全国障がい者スポーツ大会の予選会だ。日本代表選手と対戦し、今までに経験がないほどの完敗を喫した。
ただ、悔しかった。もっとうまくなりたい、強くなりたい。
気持ちが変わり、強豪の高校に進学した。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
しかし、高校の部活も、川﨑にとっては必ずしも楽しい環境ではなかった。先輩から嫌なことを言われ、障がいがあるからからこんな思いをするのかと自問する、やるせない時期もあった。
このとき、川﨑の支えになったのが、デフ卓球の存在だった。
2012年、川﨑は東京で開催された世界ろう者選手権に足を運んだ。国際大会で活躍する聴覚障がい者の姿に、川﨑の目はくぎづけになった。「私もここで戦いたい」。その最高峰であるデフリンピックに出ることが、その日から川﨑の夢となった。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
すぐに叶った夢の後に
ところが、その夢はすぐに叶ってしまう。
翌年、高校3年生でデフリンピックの団体メンバーに選ばれたのだ。日本代表として初めての国際大会が夢の舞台。川﨑は、その空気と緊張感に完全に飲まれてしまった。現地の食事も合わず、食べられたのはキュウリとトマトだけ。
日本女子は団体で銅メダルを獲得したが、チームに貢献出来なかった川﨑は、いまひとつ勝利の実感を持てなかった。
むしろ、他の日本代表の姿や中国選手のプレーを見て、自分との差を感じるばかりだった。「すごいな、今の私じゃ無理だ。頑張らないと」。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
「自分の力で掴んだメダルだ」
翌年進学した先は、大正大学。
卓球部には全日本でも勝ち上がれる選手や海外遠征に呼ばれる選手もいて、みんな自分よりも強い。
練習では台の出し入れや掃除、団体戦の日は球拾いに応援と、部員の一人としてチームのための仕事をこなし、練習には熱が入った。週6日の部活で腕を磨き、大学4年で挑んだ2度目のデフリンピックでは、団体とダブルスで銅メダルを獲得した。
今度は「自分の力で掴んだメダルだ」、そう思えた。
色は何でも、とにかく嬉しかった。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
就職活動を始めようと思っていたところで、SMBC日興証券から「障がい者アスリートとして採用をしたい」と声がかかる。
「障がい者採用のある会社を自分で調べて就活するつもりだったから、びっくりしました。でも、ずっと練習できるって言われて、私、海外で勝てる選手になりたいから」。
気づけば、卓球が自分をここまで連れてきてくれた。川﨑は、卓球選手を職業にする決断をする。
写真:川﨑瑞恵(SMBC日興証券)/撮影:槌谷昭人
つまずく度に足元の課題と向き合って、一歩一歩前に進んできた川﨑。ひたむきな心が、彼女をアスリートの舞台へと押し上げた。