県大会2回戦負けの男がペルー卓球代表コーチになるまで(前編) | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:青年海外協力隊活動時の渡邊拓也氏(写真右)/提供:渡辺拓也

卓球インタビュー 県大会2回戦負けの男がペルー卓球代表コーチになるまで(前編)

2020.07.22

この記事を書いた人
1979年生まれ。2020年からRallys/2024年7月から執行役員メディア事業本部長
2023年-金沢ポート取締役兼任/軽い小咄から深堀りインタビューまで、劇場体験のようなコンテンツを。
戦型:右シェーク裏裏

南米ペルーで卓球コーチをしている日本人、渡辺拓也(わたなべたくや)の話をしよう。
1990年生まれの30歳。
彼のことを知ったきっかけは、5月、オープンしたばかりの卓球場を、コロナの影響で閉鎖することを告げるツイートだった。

コロナウイルスは、南米のこんな小さな地方の卓球に触れる機会も奪う。

すぐにオンラインで取材を申し込み、そのペルーで卓球場を経営する日々と、普段私たちが目にすることの少ない“ペルー卓球事情”をお伝えしようと思った。
しかし、南米の“居候先”の家のリビングからオンラインで取材した渡辺氏自身の話は、ペルーに行く前のエピソードからユニークなものだった。
当初の予定を変更し、全3回の連載でお送りする。

>>なぜ男は、卓球全日本チャンピオンから餃子屋になったのか<野平直孝・前編>

最短20歳で青年海外協力隊に行くつもりが2回試験に落ちた

――ペルーには青年海外協力隊で卓球のコーチとして派遣されたことがきっかけですよね?
渡辺:
そうですね、2013年に派遣になりました。正直、それまでペルーに行きたかったとかではなく、僕自身中学生ぐらいから青年海外協力隊ってもの自体に憧れてて調べていくうちに、卓球でも国際的なボランティアができるっていうのを知って、中学から卓球やってたし、それで出来ることがあるならっていう思いですね。

――高校卒業して、そのまま青年海外協力隊へ
渡辺:
協力隊に応募できるのが20歳からなんです。2年でお金を貯めて20歳で最速で協力隊に行きたかったので大学も行かず。でも、自分の調査不足っていうか、僕、勉強自体が嫌いで英語も全然で、卓球やってれば行けるんだなって思ってたんです。


写真:渡辺拓也氏/提供:渡辺拓也

――卓球はどれくらいの実力だったんですか
渡辺:全然です。最高戦績は、神奈川県大会2回戦負けです。
県大会出たらすごいって言われる弱い中学・高校で、部活に同級生いなくて、一人朝練で筋トレやサーブ練してっていう環境でした。

――それでも卓球コーチになると決めていた
渡辺:
なんでしょうね(笑)。思い込みですかね。自分はJICAの協力隊に行くんだな、卓球コーチとしてはそこそこできるコーチになれるはずだって。

「中国合宿に連れて行ってください」

渡辺:2010年6月、協力隊の1回目の受験の前に中国合宿に行ったんです。四川省の成都に。

――え?……失礼ですが、県大会2回戦負けなのに
渡辺:
はい。当時たまたま見つけた入った蒲田の卓球場の中国人コーチに「いつか指導者になりたいんです」とお願いして。実力的に底辺の自分がコーチを目指すには、やっぱり一度中国に行くしかないかなと。

それが、当時住んでいた大田区の蒲田卓球センターっていう卓球場で、中国人の先生(編集部注:鄧荻(トウオギ)氏)が、「本当に行きたいなら、1ヶ月合宿行かせてあげるよ」「え、良いんですか」って。その先生が元中国のプロ選手で、元日体大でコーチをしてた方だったんです。それで、さっそく仕事を辞めて「準備できました」ってことで、1ヶ月間合宿に来ました。

――そこで本場の指導法を学んだんですか
渡辺:
いや、僕自身が、中国のジュニア選手たちと一緒に練習する感じです。

レベルが違った

――上達したんじゃないですか
渡辺:
いや、場違いでした(笑)。ただでさえレベルが圧倒的に違った上に、途中、成都開催のジュニアサーキットのために、当時エリアカの村松雄斗選手とか酒井明日翔選手とかもやってきて、同じ場所で練習してて。めちゃくちゃ恥ずかしかったです(笑)。

――レベルが違いましたか
渡辺:
遠くで村松選手とか酒井選手が練習してて、おおエリアカすげえとか思ってると、台湾の監督が参加者の名前が載ったパンフレット持って「お前どれだ」って聞いてきて、やめてくれーって思ったり。でも僕もお金払って来てるし、1ヶ月しかないから練習1日も休めないなって思って、ただ僕の実力は1日2日でバレちゃってるからなかなか相手してくれなくて

スッチと30分練習した


写真:ベルナデッタ・スッチ(ルーマニア)/提供:ittfworld

――それは…そうなりますよね
渡辺:
やべえって思ってると、ヨーロッパのスッチいるじゃないですか、ルーマニアの監督が当時おじいちゃんで、僕が練習相手いないって困ってたらウチの子とやってくれって。当時のスッチと30分くらい練習しました。当時はあまり強くなかったですね(笑)

――言いますね(笑)
渡辺:
いやあ、でも恥ずかしいことばっかりでしたね(笑)。たまに皆で試合やるんですけど、成都中国チームと外国チームって言われて、僕はこれちょっと場違いだから写真撮ったり勉強だけしとこうかなって思ってたら中国チームのコーチに怒鳴られて。お前ここ入れって言われて外国チームの方に入って普通に11-1とかラブゲームとかで負けたり。

合同練習が終わった後に残ってサーブ練習してたら、スロバキアの選手もやってて。拙い英語で喋ってたら、日本選手だったら水谷(隼)と知り合いだろうって聞かれて、いや知り合いじゃないって答えて不審がられたり

あと、わざと練習場の中をふらふら歩いて、中国選手はもう僕のレベルわかって相手してくれないから、韓国選手の方をうろうろして。僕がカットマンなので、とにかく「お前カットマンか」って、練習してもらえないかと思って。

――いろいろ経験してますね…。そして、予定通り青年海外協力隊を受験する
渡辺:
はい。初めて受けたのが20歳の時です。英語のTOEICも恥ずかしい話、300点も行かなかったぐらいで。その時は書類選考があって次に実技試験で。落ちたときも、ああ実技試験の時にちょっと緊張しちゃったのかなって思って。結果報告の書類に書いてないんですね、なぜ落ちたかっていうのが。

――落選理由を実技試験だと思っていた
渡辺:
ええ。それで翌年ですかね、2012年かな、ネパールで募集があったんですよ。協力隊が経験できたらどこでも良いって思って書類を出したら書類選考はまた受かって、実技試験で僕1人しかいなかったんです。実技試験も日本卓球協会の方に打ってもらって「君の実力なら大丈夫だよ」って言われてこれは受かったなって思ってたら、2ヶ月後くらいに結果報告の書類が来て、不合格。

――受験者一人だったのに
渡辺:
おかしいだろって思って、JICAの本部に電話して「僕1人だったんですけど」って。そしたら「すいません渡辺さん、どうしても英語のTOEIC300点っていうのは最低限の最低限なんですよ」って言われて、なるほどって思って。そこから英会話学校に行きました。

「また君か」

――そして3回目の受験でようやく合格
渡辺:
その時も実技試験にいらしてくれた日本卓球協会の方も「また君か、そんなに行きたいの」と苦笑するような感じで「どうしても意地っていうか、昔からの憧れで」みたいな感じで、何とか3回目、23歳で受かりました。

――卓球の応募ってそんなに少ないものなんですか
渡辺:
そうですね、募集が無い年もありますね。要請を受けて、JICAが必要かどうかの判断を下してそれで募集っていう形になるので、あって1件、2件とかそれぐらいだと思います。

――23歳で念願の協力隊に
渡辺:
いや、2ヶ月くらい候補生の期間があって、あまりにもスペイン語ができなくって。20年くらいJICAでスペイン語の語学講師をしてる方に「お前みたいなやつ初めて見た」って、4回くらい訓練所の放送で呼び出されて怒られました。アルファベットに苦労するレベルでしたからね。いやあ、本当に勉強苦手なんですよ。

――……行けたんですよね?
渡辺:
ギリギリで行けました。20歳で協力隊に行くつもりが、結局、大卒の人間と同期になっちゃって(笑)。「お前どこの大学だった」「いや俺大学行ってないっす」「何してたの」「いや20歳で協力隊行く…予定だったんだけど(笑)」

いきなりペルー代表のコーチとして派遣

――そんな日々を超えて、いざ青年海外協力隊として2013年7月にペルーに
渡辺:
はい、ペルー卓球連盟の代表コーチとして派遣されて、活動が始まりました。

――え、代表コーチですか?

「強くない、でも教えたい」南米ペルーで足掛け8年 日本人卓球コーチの奮闘記(中編)に続く>