張本コーチの愛弟子・及川瑞基 「スピード×思考」の卓球で世界へ挑む


日本の卓球勢はさらに勢いづきつつある。水谷隼、吉村真晴ら「リオ五輪組」に続く新世代の台頭も著しい。その注目株が及川瑞基だ。U21の世界ランキングで1位にランクインしたのだ。

2017年8月のITTFワールドツアー・ブルガリアオープンで男女21歳以下シングルスの部決勝が行われ、及川瑞希と森薗美月の日本勢がアベック優勝を果たした。「シングルスでも格上の選手に久しぶりに勝てたので自信になった大会でした」と振り返る及川。現在20歳、これからの成長が期待される頼もしい一言だった。現在、ドイツのブンデスリーガで武者修行中の及川に話を聞いた。

張本コーチの一言。

及川は1997年宮城県の黒川郡に生まれた。一番古い卓球の記憶は「5歳」、始めたきっかけは2人の姉が卓球を習っていたことだ。「お父さんは柔道だったんですけど、お母さんが卓球してて。その関係もありました」。親の影響で始めたものの、スパルタ教育を受けていたわけではない。それどころか「僕はサッカーのほうが好きだったんです」と語る。卓球を始めた5歳の時はちょうど2002年の日韓サッカーワールドカップイヤー、日本全国で最高潮にサッカー熱が高まっていた。さらに、及川少年はサッカーから野球に“浮気”する。「小学校が作っている野球のクラブチームに入ってました。卓球の練習?夜ちょっとやる程度で(笑)」。

世界のトップで戦う多くの一流プレーヤーが幼少期から両親直々のスパルタ指導を受けて強くなってきた中にあって、及川のような幼少期は珍しい。「親から怒られたことは、あまりなかった」という。そもそも両親に卓球の指導を受けるすらあまりなかったという。というのも及川は張本智和の両親が経営する卓球練習場に通っていたからだ。張本コーチの指導について「とにかく褒められた。褒められたら楽しくなって、気付いたら『今日も行きたい』って感じで練習に行ってました」と振り返る。

そんな及川が卓球、そして勝負の面白さに目覚めた出来事があった。それが小学校3年生の時の“とある1試合”でのこと。普段は温厚な張本夫妻から怒られたのだ。

「みんなの中で一番調子よくて結構上に上がれるのを期待されてたんですけど、すぐ負けてしまって。で、『なんで勝てたのに負けたの』って張本のお父さんとお母さんに怒られたんです」。

負けて悔しいーー。今まで友達との遊びの延長線上にあったスポーツが始めて「勝負事」だと感じた1試合だった。そこから及川は卓球に急速にのめり込んでいく。「急激に練習量も増やしました。特に、考えて練習するようになりましたね。次の年は2位になって。それから自分の中でもどんどん卓球が楽しくなって自信がちょっとついて」。

卓球にのめり込むきっかけを作った人物こそ張本の両親であることは間違いない。だが、張本コーチよりも及川の卓球人生に大きく影響を及ぼした存在がいる。それがライバル・三部航平だ。

「三部とは小さい頃からいっつも顔合わせてました。同年代で何かの大会があると最後は及川対三部で」。三部とはこの後、青森山田中学から現在の専修大学に進学するまで、長い付き合いになる。「生涯戦績は3:7くらいで僕が負け越してますよ」。まさに漫画『ピンポン』のペコとスマイルのような腐れ縁だ。

青森山田へ進学 丹羽孝希の“一人部屋伝説”

小学校卒業後、卓球に打ち込むために名門・青森山田に進学した及川。そこでも再び顔を合わせたのが三部だ。当時の卓球部は寮生活、それも2人1組で相部屋だ。当時の青森山田の板垣孝司監督の指名で三部航平との相部屋になった。

中学校1年の頃から及川は三部のことをライバル視していたという。「多分お互いバチバチでした。もちろん、普段は仲良く話しますけどやっぱり負けたくない。部屋でも“あいつに勝つためには”ってカーテン閉めて試合のDVDをこっそり見てました」と明かす。

慣れない相部屋でライバルとの共同生活が始まった。「先輩で卓球が強ければ1人部屋になれるらしいんです。当時は1人部屋が憧れで。それがモチベーションのひとつでした」。中でも及川たち“新人”たちにとっての憧れが3年上の丹羽孝希だ。そのワケは丹羽の打ち立てた“ある伝説”が寮内でまことしやかに囁かれていたからだ。「当時の噂で、丹羽さんは中2から1人部屋だったっていう話を聞いて」。「三部に勝ちたい」という及川の目標に「強くなって1人部屋に入りたい」が加わった。

中3でブンデスリーガへの挑戦

青森山田での恵まれた練習環境で及川は着実に実力を付けていく。派手さこそないものの、台の近くに立ち、スピードを武器に立ち回り、負けない卓球を心がけた。中学は中1のときにカデットの部で優勝を果たす。「堅実なタイプだと思います。結局丹羽さんみたいな伝説もなく、中3まで三部と相部屋でした(笑)」。

だが、中3で大きな転機が訪れる。始めての海外修業の機会が訪れたのだ。ブンデスリーガ4部への挑戦だ。その時も三部と一緒だ。現地にいる中国人コーチ・邱建新から指導を受けることとなったのだ。

今や、日本人選手にとってブンデスリーガは登竜門となっている。1部から10部以上でなる巨大な“卓球ピラミッド”をどこまで登ることができるのか、腕試しをするのだ。「30歳くらいのすごいやりづらい選手がいたんです。テンポ崩してきたりして。その人に2回も負けちゃって」。そこから及川の“思考する卓球”が始まる。「堅実に相手を見ながら、戦術を考えながらやる」。及川の卓球の“型”ができ始めたのもこの頃だ。相手がどんな攻撃パターンを得意とし、苦手なポイントはどこか。将棋のように次の一打、その先の一打へと思考を巡らせる。だから及川は1点ごとに大声で感情を表すことはほとんどない。

もう一つ忘れられない試合がある。それが高1の時のインターハイの団体の決勝戦だ。長らく青森山田の連覇が続いていたが、及川も三部も負け、連覇が途切れてしまった。「正直言うと、ここまで来れたっていう、満足感があった。勝ちに行ってなかったのかもしれない」と振り返る。

その後、三部と及川は揃って専修大学へ進学した。当時の学生卓球業界は「青森山田の2枚看板がそろって専修か」と驚きを持って迎えられた。及川には専修大学と並ぶ卓球の名門である明治大学への進学もあったはずだ。だが「海外への挑戦をしたかったんです。専修はそれを条件として認めてくれているので専修へ進みました」と理由を語る。

専修大学進学後もドイツでの挑戦は続いている。ドイツへ渡り、「静かに思考する卓球」だった卓球スタイルも少し変化した。「自分が得意とする相手だと“こうやっとけば大丈夫だろう”って思ってしまいがち。でも。やっぱ負けられないし負けたくない。なら0-0のスタートダッシュから威嚇することも必要。気持ちで上回れるように少しでも声出して向かっていくことも覚えました。9-9(ナインオール)みたいな勝負どころだったら、時には思考するだけじゃなくて自分の勢いに任せて打ったりとか、ね」。

“思考”という武器をどう磨き上げるか。及川が参考にしているのは他競技のトップアスリートたちだ。「長谷部誠選手の『心を整える』とか。イチロー選手に関する書籍も読みます。当たり前のことですけど、身の回りの整頓ができてないと心の整頓もできないんで、余計なことを考えてしまう」。その成果は日常生活にも及んでいる。「例えば時計がどこにあるとかは分かっていたらもうそれ考えなくていい。次の新しい思考が生まれるんです」。だからこそ及川はいつも同じサンダルを常備し、試合の前日の寝る前にはアイマスクをしてリラックスする。染み付いたルーティンを繰り返すことで“無駄”を削ぎ落としていく。

無論、学業との両立も完璧にこなしている。「前期はフル単位です。順調です。勉強は嫌いじゃないんです。特に語学は僕にとってリフレッシュみたいなもで。ドイツ語も勉強していますし、張本コーチの話してる中国語がカッコ良かったので中国語も勉強し始めました。イタリア語もちょっと勉強してます」というから驚きだ。とにかく頭を動かすことが得意なのだ。

U21のランキングナンバーワンに立って、目下の課題はないのか。「強いて言うなら恋愛ですね…」。珍しく冗談が口をついて出たが、生来、根が真面目だから冗談には聞こえないのが及川らしさだ。すぐに真剣な眼差しに戻り、「やっぱり得意技、必殺技が欲しい。今までは日本人ということでスピード重視で戦ってきた。でも同じチームのチェコのビボーニ選手に『速さは十分だから少し緩急とか、緩く打ったり、そん中に速いもんが打つから速いのが効いてくる』ってアドバイスされたんです」。

“スピード”と“思考”という二つの武器の先にある“必殺技”とは。その答えは卓球台の上で見せつけてくれることだろう。

取材・文:武田鼎(ラリーズ編集部)
写真:伊藤圭

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