乗り越えられない壁はない。大島祐哉(木下グループ)を見ているとそういう気持ちになる。
大島は、大学入学時に「世界卓球代表になる」と高い目標を掲げ、誰もが無理だと思ったその壁を乗り越えた。
だが、それだけでは満足しなかった。
大島が次に目指したのは五輪代表という遥かに高い壁だ。
>>第1話はこちら 「何かを捨てなきゃ無理」“努力の天才”大島祐哉、夢を夢で終わらせない目標達成の思考法
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『五輪代表になりたい』と自分の中で本気になれていなかった
大島が早稲田大学4年生となった2015年、リオ五輪の代表争いは熾烈を極めていた。水谷隼と丹羽孝希の両サウスポーが確実視され、大島と吉村真晴、松平健太が残り1枠を争っていた。
写真:2015年中国オープンでの大島祐哉/提供:ittfworld
大島はこの1年で飛躍的成長を遂げ、世界ランクも50位台まであげていた。
ヨーロッパチャンピオンズリーグでは、元世界ランク1位のブラディミル・サムソノフ(ベラルーシ)やロンドン五輪銅メダリストのドミトリ・オフチャロフ(ドイツ)を下した。中国OPでは世界王者の馬龍(マロン・中国)をフルゲームまで追い詰め、敗れはしたがベスト4に入った。世界の強敵を相手にしても互角以上の戦いを繰り広げていた。
写真:2015年中国オープンでの大島祐哉/提供:ittfworld
しかし、2015年9月19日、リオ五輪代表に大島の名は呼ばれなかった。選出されたのは同級生の吉村だった。大島が世界ランク22位、吉村が18位と僅差での決着。大島は4番手としてリオ五輪のリザーブ(控え選手)に選ばれた。
当時を振り返る大島祐哉(木下グループ)
「結局、(吉村)真晴に何ポイント差かで負けたんですけど、あのとき僕はギリギリのところで滑り込んだだけ。『日本代表になりたい』という目標はあっても、『五輪代表になりたい』と自分の中で本気になれていなかった。でも、真晴は『五輪代表になりたい』と思ってやっていた。そこの差は大きかった」。
自身の想像をも上回る急成長で、大島は日本代表へと上り詰めていた。それは「世界卓球日本代表になる」と“鮮明に思い描いてきた目標”に向けて、来る日も来る日も努力を重ねてきたからだ。だが「五輪代表」は“運良く手が届きそうになった目標”だった。その熱意の差が“代表”と“リザーブ”という形になって表れた。
2019年全日本では張本を破り、東京五輪代表候補筆頭に
リオ五輪代表争いに敗れた大島だが、大学卒業間際には18位まで世界ランクを上げ、卒業後はプロ卓球選手になった。
目指すはもちろん「東京五輪代表でのメダル獲得」だ。
写真:大島は次なる目標に東京五輪代表を選んだ/撮影:田口沙織
「結果を出すためにどういうアプローチをすれば良いかはわかっている」。たった3枠の東京五輪代表の座を目指し、これまでと同じく大きな目標から逆算する思考法で努力を重ねた。
2017年、世界卓球デュッセルドルフ大会では前回の雪辱を果たし、ダブルス日本勢48年ぶりの銀メダルを獲得した。決勝進出を決めた瞬間、ペアの森薗政崇と抱き合い喜びを露にした。
写真:世界卓球デュッセルドルフ大会でダブルス決勝進出を決めた大島祐哉・森薗政崇ペア/提供:ittfworld
8月には世界ランクも自己最高の17位まで上昇し、2018年1月の全日本選手権では水谷と組んだダブルスで優勝を果たした。
写真:2018年全日本選手権で優勝した大島祐哉・水谷隼ペア/提供:アフロスポーツ
その後も国内外問わず結果を出し続けた。2019年の全日本では“若き王者”張本智和を準決勝で破り、シングルス準優勝を勝ち取った。
写真:2019年全日本選手権で張本智和に勝利した瞬間の大島祐哉/提供:西村尚己/アフロスポーツ
東京五輪選考レースが本格化した2019年、ダブルスの実績もあり、大島は東京五輪代表候補として名が挙がることも多かった。7月時点では世界ランク22位と日本人4番手につけていた。
急成長の代償 選考レースから脱落
卓球界随一の身体能力とも言われる大島は、豪快なフォアドライブと天性のバネを活かした拾い守備範囲のフットワークを持ち味としている。
写真:豪快なフォアドライブを持ち味とする大島祐哉/提供:西村尚己/アフロスポーツ
しかし、169㎝と決して大きくない身体を限界まで追い込み、コートを駆け回ってきた代償は大きかった。背中に痛みが走るようになったのだ。診断結果は椎間板ヘルニア。痛みで得意のフォアハンドは鳴りを潜め、フットワークにも悪影響を及ぼした。思い描く理想のプレーができなくなっていた。
ついには7月、獲得ポイントの大きいプラチナ大会・オーストラリアオープンを背中の痛みで棄権した。
神妙な面持ちで当時を振り返った
手術をしないと元のプレーを取り戻すことはできない。それはわかっていた。しかし、手術をすればリハビリ期間は練習ができず、回復するまでワールドツアーには出られない。東京五輪代表は1月の世界ランキングで2枠決まる。3枠目は協会推薦だが、試合に出てない選手が選ばれることはまずありえない。事実上の選考レース脱落を意味していた。
写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織
それ以降、大島は国際大会の舞台に立つことはなく、11月に背中の手術を行った。
ギラつきや熱意がどこかに消えて抜け殻になった
「2019年が、やっぱり悔やまれますね」。そうポツリと呟いた。
写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織
「自分の中で怪我が大きいものでした。それからなかなか前を向けなかった。東京五輪に出られたら代表を退いて、Tリーグだったり違う活動だったりに行こうかなとも思っていた。でも怪我をして、次何をしたらいいんだろうって」。
怪我で東京五輪代表に向け、積み上げることすらできない。どう足掻いても目標へ辿り着けない。月日は流れ、強制的に終止符を打たれる。走り続けてきた大島が、初めて目標を見失い、立ち止まった瞬間だった。
怪我をしてからは半年以上ラケットを握れなかったという
「手術が終わって、この1年、試合はあるしもちろん出て本気でやるんですけど、どこか欠けていました。自分が輝いていたときの卓球へのギラつきや熱意がどこかに消えた。前のような勝ったときの嬉しさや負けたときの悔しさじゃないんです。全然喜びや悲しみを感じなくなるというか、抜け殻というか。そういう感じになっちゃいましたね」。
写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織
大島を繋ぎとめた家族の支え
卓球を辞めようとは思わなかったんですか。
そう尋ねてみた。
「たぶん独りだったら辞めてましたね」。
大島はさらりと答えた。自らに問い続け、結論はもう出ていた。
「結婚して家族がいる。それがすごく大きかった」。大島を繋ぎとめたのは妻と2歳になる娘の存在だった。
写真:家族の存在が大島を支えた/撮影:田口沙織
「卓球を辞める辞めないで言うと、たぶん独りだったらもう次の4年間は無理だって辞めてました。『次の4年後に向けてできるか?』という問いに対して、100%でイエスと言えなかったら無理なんです。そんなやわな目標ではない。4年後は30歳。独りだったら続ける自信がなかった。でも、家族がいて子供がいて、自分はプロの卓球選手。卓球で稼がないといけない。これから子供が大きくなるのを見届けてあげたい。家族を支えるために卓球をするという風に変わりましたね」。
大島の左手薬指には結婚指輪が輝く
ずっと傍で支えてきた妻も「自分の中で限界と思ってないならやるべきなんじゃない」とそっと大島の背中を押した。
「東山出身の僕にしかできない」大島祐哉の次なる目標
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、国内外問わず試合はほぼ全て中止となり、卓球界は一度歩みを止めた。「家族と過ごす時間が増えて、やっぱり自分の卓球で支えていかないといけないなと思いました」。改めて大島の中で、家族を自分の卓球で支えるという覚悟が決まった。
写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織
徐々に卓球界が再開しつつある中、「今は少しずつ前を向いてきている」と大島は語る。
目指すべきものがなくなり、どこか抜け殻のようになっていた大島の心を掻き立てる目標が見つかったのだ。
「東山高校出身の僕しかできないんじゃないかというのが一つある。それだけはやりたいというのが心の中にはあります」。
「東山高校出身の僕しかできないんじゃないかというのがひとつある。それは…」