「何かを捨てなきゃ無理」"努力の天才"大島祐哉、夢を夢で終わらせない目標達成の思考法 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)

写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織

卓球×インタビュー 「何かを捨てなきゃ無理」“努力の天才”大島祐哉、夢を夢で終わらせない目標達成の思考法

2021.01.08

この記事を書いた人
Rallys編集長。学生卓球を愛し、主にYouTubeでの企画を担当。京都大学卓球部OB。戦型:右シェーク裏裏

元旦に誓った新年の約束を、すでに守れていない人も多いことだろう。これまでも多くの人は、どこかで努力することを諦め、妥協を繰り返してきた。

だがこの男は4年間、自らに誓った約束を守り続けた。

彼の名は大島祐哉(木下グループ)。


写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織

大学4年間で絶対世界選手権の日本代表になる」。無名だった大島が、東山高校卒業時に立てた目標だ。

誰も大島が日の丸を背負う存在になるとは想像すらしていなかった。しかし、自分を信じ、努力を重ね、大学4年の2015年に大島は世界選手権代表の座を掴み取った。2017年には日本勢48年ぶりの世界選手権ダブルス銀メダルを獲得し、“努力の男”として一躍脚光を浴びた。

だが、東京五輪選考レース真っ只中の2019年中頃から、彼の名を聞く機会はめっきりと少なくなった。2020年4月にはついに、ナショナルチーム候補選手からも外れた。

「大島は何をしているのか」。卓球ファンから心配の声も上がった。

これから始まる連載3本の結論を先に言おう。

心して全日本を待て、である。

>>“オールフォア”の東山高校卓球部は、常にPDCAを回す理論派集団だった

群雄割拠の男子日本卓球界 それでも誓った“代表入り”

大島が早稲田大学に入学した2012年、男子日本卓球界は群雄割拠の戦国時代だった。上には水谷隼、岸川聖也、松平健太、同期には吉村真晴、1つ下には丹羽孝希。幼い頃から日本代表として活躍してきた猛者が顔をそろえていた。


写真:当時の“戦国時代”を振り返る大島祐哉/撮影:田口沙織

「水谷さんがいて(丹羽)孝希がいて、他にも強い選手がたくさんいる中で、もっと下でしたから僕は。ここから日本代表になるには何人抜いていかないといけないんだとは思いましたね」。大島も当時の境遇を振り返る。それでも「世界選手権の日本代表になる」と自らに高い目標を課した。

目標を立てることは自由。全力でやってみよう」。


写真:大島祐哉は挑戦することを誓った/撮影:田口沙織

そこから大島はラケットを振り続けた。オフの日以外の平日は授業を午前中に詰め込み、午後2時から夜9時までほぼ毎日練習した。深夜2時までボールを打ち続けた日もあった。そしてオフの日には、めいっぱい授業を入れることで、他の日の練習時間を確保した。

大島はここで、ただがむしゃらに練習量をこなしていたわけではない。大きな目標から逆算し、小さな目標や課題をクリアしていくという理詰めで考えるアプローチをとった。


写真:自身の努力法を語る大島祐哉/撮影:田口沙織

「単純にただ練習をやっていてはしんどいだけ。これを達成したから次に行く、達成できなかったら何が必要なのかを見つめ直すというアプローチでなかったら、4年間で日本代表になるという大きな目標にはなかなか辿り着かない」と理路整然と話す。

この考え方は大島の高校時代にルーツがある。「(東山高校名誉監督の)今井先生にも(東山高校卓球部監督の)宮木先生にも『3年間で何を達成し、何をするのか』はよく言われました」と目標達成を問われ続けてきた。この思考法が、“努力する才能”と呼ばれるものの一部なのかもしれない。

努力を続ける鍵は「プラスとマイナスを見つけること」

大学入学後の練習の成果はいきなり結果として表れる。


写真:2013年、早稲田大学から出場したジャパンオープンでの大島祐哉/提供:ittfworld

大島は大学1年で全日学シングルス3位入賞、国際大会初出場も果たした。一歩ずつ着実に日本代表へ迫っているかに見えた。だが、努力がすべて結果に結びつくほどスポーツの世界は甘くはない。大学2年の全日学では4回戦敗退、世界ランクも200位台中盤で1年間停滞していた。

しかし、当時、結果が出ずに挫けることはなかったと聞くと「なかったですね」と返ってきた。


写真:努力を継続する秘訣を話す大島祐哉/撮影:田口沙織

「負けたら全部がマイナスではない。技術や戦術など1個2個は絶対プラスのことがある。もし全部がダメだったらその前の練習が良くないというだけ。大きな目標への通過点においては、プラスとマイナスを絶対に出すことが大事」

そして、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

どんな小さなことでも良いんです。プラスの部分を見ないと努力は続けられない」。


「必ずプラスとマイナスを出すことを意識していました」

大学2年生の1年間での大島が掲げたのは「全日本でのランク入り」だった。全日学で敗れた際は、何がダメだったのか、何をやったら全日本でランクに入れるのか、とすぐに次のステップに向かう材料を探し、前を向いた。結果的に大島は、大学2年の全日本で初のランク入りを果たしている。

何かを得るためには何かを捨てなければならない

「大きな目標から逆算し、小さな目標をクリアしていく」。言うのは簡単だ。頭でもわかっている。だが「これ以上頑張れない」と勝手に自分の限界を作ったり、「もういいんじゃないか」と妥協してしまう人も多い。最後まで踏ん張り続けるためには何が必要なのだろうか。


写真:“努力の男”大島祐哉/撮影:田口沙織

「大きな目標を達成するには、積み重ねていくプロセスも大事ですけど、立てた目標に対してどれくらい自分が熱意をもってやれるのかも大事です」。

少し言葉を探し、続けてこう言った。

「そのためには何かを捨てなきゃ無理ですね」。

何を捨てたのか、という質問には即答だった。

僕は自由を捨てました」。


「僕は自由を捨てました」

強豪高校で練習漬けの日々を送ったアスリートが、大学で遊びを知り、堕落し消えていく。スポーツ界ではよくあることだ。でも、大島は自らを律し、高い壁に挑み続けた。

「友達と遊ぶ時間、リフレッシュの時間も大事です。でも、大学4年間でその時間が僕は他の人よりかなり少なかった。授業も部活がオフの日に詰め込んで、他の日は午前中で授業を終えて練習できるような時間割にして、第一に卓球を置きました。日本代表に自分の位置からなるには、人の何倍練習すればいいか。最初はわからないです。これ位練習してもまだここなんだ、じゃあ何回やってとなっていく。そのためには捨てないといけないものはありますよね」。

ついに掴み取った世界選手権代表 「でも満足していなかった」

2015年1月、ついに大島は念願の世界卓球蘇州大会の日本代表に森薗政崇とのダブルスで選出された。


写真:大島祐哉(木下グループ)/撮影:田口沙織

2015年5月、大学4年で挑んだ本大会では、準々決勝で中国の許昕(シュシン)/張継科(チャンジーカ)ペアをあと1点まで追い詰めた。敗れはしたが、高校時代無名だった大島が4年間で世界卓球ベスト8。大躍進だ。


写真:2015年世界卓球蘇州大会での大島祐哉(写真奥)/提供:ittfworld

だが、大島の気持ちは、燃え尽きることも満ち足りることもなかった。「世界選手権の日本代表になる」という目標は、いつしかもっと大きな目標の通過点となっていたのだ。


写真:2015年世界卓球蘇州大会ではマッチポイントをものにできず、メダルを逃した大島祐哉・森薗政崇ペア/提供:ittfworld

「傍から見れば結果は出ている。でも自分では満足してなかった。メダルを取ってないですから。スポーツの中では五輪のメダル、世界選手権のメダル。これを取ったか取ってないかで重みが違います。選手はメダルがすべて。形ある結果が無かったら選手は評価されないんです」。


「選手はメダルがすべて」

努力を重ね、自らの手で新たな道を切り拓いたことで、見える景色が変わっていた。

「全日本や世界で勝てるようになって、視点がどんどん変わっていった。世界1位にならないと満足しないとか、五輪代表になってメダルを取らないと満足しないとか。目指すものや見えるステージが変わっていく。そこが悔しいしでも楽しいし、努力ってそういうことじゃないですか」。


「悔しいしでも楽しいし、努力ってそういうことじゃないですか」

大学4年間で掲げた「世界選手権の日本代表になる」という目標を達成した大島。次なる目標に「五輪代表」を掲げ、リオ五輪代表3枠目を同級生の吉村真晴と争っていた。

第2話 急成長の代償で五輪選考レース脱落 “抜け殻になった”大島祐哉が再び前を向いた理由 へ続く)