丹羽孝希、町飛鳥、吉田雅己の青森山田同級生トリオは、2010~12年にインターハイ団体3連覇と黄金時代を築いた。東京五輪代表の丹羽を筆頭に、町、吉田もTリーグで活躍し日本卓球界を牽引している。
実は、丹羽世代とも言える青森山田高2010年入学には、丹羽、町、吉田に次ぐ“幻の4人目”がいた。
彼の名は姫野翼。
全日本ジュニアベスト8、インターハイダブルス3位と輝かしい実績を持ちながら、2011年の秋以降、卓球界の表舞台から忽然と姿を消した。
時は流れ、現在、姫野は大阪の実業団チーム・クローバー歯科カスピッズにコーチ兼選手として所属している。
今回は“青森山田幻の4人目”姫野の青森山田高時代から実業団のコーチになるまでの軌跡を追った。
>>クローバー歯科特集・第1話 「負けたらチームは解散」歯医者の持つ卓球チームが日本一を目指すワケ
高2でインハイ3位入賞 勝ちに対する嗅覚
写真:練習相手を務める姫野翼/撮影:ラリーズ編集部
「僕らの代は、同学年で異次元に強かった」と同級生に丹羽、町、吉田を擁し、1つ下には森薗政崇と、当時の青森山田高は軒並みタイトルを獲得していった。東北大会ではダブルスで丹羽/町を下すなど、個人戦でもチームメートと比べても申し分ない実力を持っていた。
姫野の強さの秘密は、勝ちに対する“嗅覚”にある。代表例がチキータの習得だ。
「チキータが主流でないときに、上田(仁)さんと吉田が練習で使っていて、質の高いボールを受けた。そこで自分も面白半分でチキータをやり始めて、やっているうちに真剣に練習すれば試合で使えるなと感じ、そこから本格的に練習した」。
攻撃的なレシーブであるチキータは、今でこそ卓球の主要技術の1つとなっているが、中国の張継科(チャンジーカ)がチキータを武器に2011年世界卓球優勝を果たして以降、急速に広まった比較的新しい技術だ。
早くから「試合で使える」と確信を持ち、2011年のインターハイですでに姫野はチキータを武器としていた。
「高2の時、吉田がダブルスパートナーになり、チキータをやり込んだ。インターハイ出場ペアでチキータをしてたのが、僕ら、丹羽/町、優勝した吉村真晴/有延大夢(当時・野田学園高)の3ペアだけ。周りが誰もやっていないので面白いように決まった」と高2ながらダブルスで3位入賞できた要因を挙げた。
青森山田を中退 卓球界から姿を消した選手・姫野翼
写真:青森山田高時代を語った/撮影:ラリーズ編集部
だが、2011年のインターハイ以降、“青森山田の姫野翼”という名を卓球界で目にすることはなくなった。
そのことを尋ねると「タバコが原因で高校を途中で辞めました」と未成年喫煙がきっかけで名門・青森山田高を中退したことを明かした。
「当時はいらんことをしすぎていました。若気の至りというか…」と尖っていた高校時代を振り返る。
全国でも名を馳せる結果を残し、順風満帆とも言えた姫野の人生はがらりと一変した。
青森山田高を辞めた後、姫野は地元大阪で建築関係の仕事に就いた。一方で、同期の“青森山田三羽烏”は躍進を見せる。丹羽がロンドン、リオ五輪代表に選出、町は全日本準優勝、吉田も世界選手権代表と華やかなスター街道を歩み続ける中、姫野は働きながら地元のオープン戦に出場する程度となっていた。
運命を変えたクローバー歯科との出会い
写真:当時を振り返った/撮影:ラリーズ編集部
丹羽がリオ五輪男子団体で銀メダルを獲得し、世間が卓球ブームに沸いていた2017年6月、運命が動き始めた。偶然参加した地元のオープン戦に、チーム設立間もないクローバー歯科(当時)の石黒翼と江藤慧が出場していた。
試合会場で会った2人に誘われ、何度か練習に参加していると、クローバー歯科総監督の保田氏に「選手で入らないか」と誘いを受けた。
「保田さんと食事を重ねているうちに、9月頃誘われました。僕自身、勝たなければという使命感にモチベーションがついていかないと思い、他チームも含めて選手はずっと断り続けていました。その理由を話すと『ならばコーチをやってくれないか』と保田さんから改めて誘いを受けました」。
同期だった丹羽がリオ五輪メダリストとして世界ランクトップ10に君臨していた2017年秋、姫野は23歳で実業団・クローバー歯科カスピッズのコーチに就任した。
「いろんな人と繋がって、最終的に保田さんと繋がって今ここにいます。とことん運が良かった。人の繋がりだけで卓球界になんとか戻ってこれた」。姫野が青森山田を辞めてから実に6年の月日が流れていた。
卓球界の表舞台に返り咲いたコーチ・姫野翼
写真:練習で選手の相手としてプレーもする/撮影:ラリーズ編集部
クローバー歯科での肩書は『選手兼コーチ』だが「ダブルスで人数が合わないときのため。基本的にはコーチだけ」と試合に出場するつもりはないそうだ。全国制覇の栄光も知る男は、選手としての未練はないのだろうか。
「教える方が楽しいですね。可能性が見えるからそこに労力を使う、すると結果で返ってくる。自分で勝つより選手たちが勝つ方が喜びが大きくなった。だって自分の試合よりベンチ入ってる方が緊張しますもん(笑)。平気な顔してベンチ入ってるんですけど、手汗びちゃびちゃなんですよ(笑)」。そう笑う姫野の顔には、尖っていた選手時代の面影はなく、すでに指導者としての顔つきを覗かせていた。
写真:姫野翼/撮影:ラリーズ編集部
「青森山田を辞めたとき、最初はすごい後悔もして引きずりました。ただ、今考えてみると辞めてなかったらこの世界には気づいていない。尖ってた時代の延長で、もし大学進学してもそこそこ勝ってちやほやされて、何も言われてない状況が続いていたと思う。その方が悪い方向には進んでたかなと考えると、高校時代失敗して良かったかなと今は思ってます」。
「一度でも失敗したら終わり」。そう揶揄されることもある日本社会で、姫野は自身の過ちを反省し、向き合い、乗り越え、周囲の助けも借りて、コーチとして卓球界の表舞台に返り咲いた。
地元大阪で実業団のコーチとして第2の卓球人生を歩み始めた姫野は、指導するにあたり「青森山田高での経験は間違いなく活きている」と語る。