“水谷世代”笠原弘光(シチズン時計)は、早稲田で大学日本一を勝ち取り、関東学生リーグでは前人未到の54勝2敗という成績を残した。
ただ、その2敗を喫した相手が水谷隼(木下グループ)。笠原の前にはいつも“同世代の怪物”水谷が立ちはだかっていた。
大学卒業後、笠原は実業団へ、水谷はプロへと進んだ。社会人3年目の全日本で笠原は「水谷に最もチャンスがあった試合」を迎える。
>>第1話はこちら 不滅の大記録でも「水谷隼は倒れてくれなかった」 31歳・笠原弘光、水谷世代に生まれて
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親と並んだ自己最高の全日本3位
――早稲田大を卒業後は協和キリン(当時・協和発酵キリン)に進まれました。選んだ理由は?
笠原:もともと仕事をしていこうと思ってたので、その中で卓球をやれる環境にあるというのが選んだ理由です。
製薬会社は今後も成長していくのかなと考えてましたし、協和が一番大きな企業だったのもあります。自分が思い描いている形でできるのが協和でした。
――プロになるという選択肢はなかったですか?
笠原:その当時はプロというのがほとんどなかったんです。水谷(隼)や岸川(聖也)さんを除いて、大学卒業して日本リーグの企業に入るのが一番上だったんですよね。
写真:2016年全日本シングルス3位に輝いた笠原弘光(当時協和キリン)/提供:YUTAKA/アフロスポーツ
――社会人4年目には自己最高の全日本シングルス3位に輝きました。
笠原:嬉しかったですね。親は両方3位まであるので、そこでようやく並べたのかなって。その年はずっと自分の状態も良かったので、運と自分の技術がうまく噛み合わさった感じです。
――準決勝ではまた水谷選手と対戦となりました。
笠原:その年は仕方なかったですね。勝ち上がっての対戦なので。でも水谷とやるなら早めの方がチャンスあるのかなと思いましたね。
写真:2016年全日本3位に入った笠原弘光(写真右)。1位の座には水谷隼が輝いた。/提供:YUTAKA/アフロスポーツ
――それはどうしてですか?
笠原:全日本の最後の方まで来ると、自分はそれまで限界で戦ってきてるんで体も痛い。僕らは金曜日のランク決定の方を重要視していて、逆に水谷は日曜日にピークを持ってきてる。その辺はやっぱり違う。
あと水谷は1台になった状況に慣れている。そうなると早い段階で当たる方が倒しやすいのかなと。
“じゃんけん事件”の真相
――3位に入った前年には全日本5回戦と早い段階で水谷選手と当たり、フルゲームデュースまで追い詰めてました。「最もチャンスがあった試合」とも。
笠原:当時は水谷が無敵の時代でした。全日本の組み合わせが決まったときはやるしかないよなって感じでした。
いつもは全日本に向けて特別に練習したり追い込んだりしていたんですが、その年は普段通りやれるだけやろうと思ったら結構良いプレーができました。
写真:協和発酵キリン時代の笠原弘光/提供:ittfworld
――その試合で「水谷選手のじゃんけんの出す手を研究した」というエピソードが話題になりましたが、実は違ったと最近ツイートされてましたね。(※当時はじゃんけんで勝った選手が複数メーカーの中から試合使用球を選球するシステム)
笠原:卓球を知ってる人であればあるほど言うんですけど、あれはマジで盛られてます(笑)。研究して勝てるならじゃんけんの研究しかしないです(笑)。
――真相は?
笠原:試合の朝、練習していて「ボールどうしようかな」とは迷ってたんですよ。
その時、岸川さんが水谷と練習してて「岸川さん、水谷どうですか?」って聞いたら、「めちゃくちゃ強い。普通にやったらチャンスない」って返ってきた。
そこで当時協和の小野(竜也)さんに「ちょっと僕勝負かけますわ」と。何も考えずにやる時、僕じゃんけんパーしか出さないんですけど、小野さんに「もうここまで来たらパーっすかね、やっぱ」と言ってたら「いや、お前チョキや!」と言われて、チョキ出して勝ったというの話です。
自分らがノリで話してたのが「研究してた」と伝わった感じですね(笑)。
――じゃんけん話を聞いたときは笠原選手の勝ちへの執念に感服してましたが、そんな真相だったんですね(笑)。
笠原:何ならあのとき選んだボールで最初僕が何もできなかった。1ゲーム目6-11でとられて「あ、これボール選びミスったな」って思いました(笑)。
ヘルニアで選手生命の危機
――話を戻して、全日本3位になった翌年、ヘルニアに苦しんだと伺いました。
笠原:僕、腰は前々からよく痛くなるんですよ。ただ、全日本で3位になった後の6月にめちゃくちゃ激しい痛みが来て、いつもだと1週間ぐらいで治るんですけど全然治らなかった。
1ヵ月経っても治らないので、病院に行ったら椎間板ヘルニアと診断されて、痛みをずっと抱えながらプレーしてたんですけど、全然動けなかったり体勢も低くできなかったりでした。
その年の12月くらいにようやく和らいできて、全日本に向けて合宿していたら、かつて感じたことのないくらいの痛みが来て再発しました。痛すぎて年末年始10日間ぐらい寝たきりで、大晦日から元旦にかけては一睡もできなかったです。
写真:2016年全日本シングルス3位に輝いた笠原弘光(当時協和キリン)/提供:YUTAKA/アフロスポーツ
――そんな状態で社会人5年目は全日本に挑んでたんですか?
笠原:年末年始で病院がやってなかったんで1月4日ぐらいまで寝たきりで、そこから病院行って「僕来週試合なんですけど試合出ないと人生終わりです」と話して、ブロック注射打ってもらって、全日本の2、3日前に半日練習やって出ました。その時は超痛かったですね…。
痛み止め飲んでも効かなくて、試合終わった日、左足が動かなくて、階段登る時も自分の手で足を上げないといけない状態でした。もう本当に卓球できないんじゃないかと思うくらいヘルニアはキツかったですね。
――今はもう完治されたんですか?
笠原:今はプレーする上で影響はないです。後遺症で股関節のところ押さえるとピーンと足が痺れるくらいです。
ただ、去年一年間は大きい腰の痛みがほぼ来なかった。今までの卓球人生でここまで腰が痛くなくて1年通してずっとプレーできたのは奇跡ですね。
写真:シチズン時計でプレーする笠原弘光/撮影:ラリーズ編集部
――その要因はなんでしょうか?
笠原:シチズン時計でのトレーニングが結構大きいのかなと思います。今までは自己流でやってたし、この年になって自分で追い込むことはなかなか難しい。
でもシチズンには専属のトレーナーがトレーニングを見てくれて、マッサージにも頻繁に通わせてくれる。
トレーニングの先生がいるから追い込めて、筋肉を鍛えて腰に負担がいかないようにして、状態が危なくなったらマッサージの人が診てくれて今マズいですとトレーナーの人に連絡してくれる。そういうスペシャリストがいるおかげですね。
――環境の変化が大きいんですね。次はシチズン時計への移籍など変化の多かった30歳の1年間について聞かせてください。
(30歳での新天地移籍 「まだトゲがなくなったとは思わない」<笠原弘光#3> に続く)
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