卓球×インタビュー 鬼のオヤジに兄・真晴。卓球一家で生まれた和弘の卓球人生の幕開け【吉村和弘インタビュー#1】
2018.06.01
取材・文:佐藤俊(スポーツライター)、写真:伊藤圭 撮影地:T4 TOKYO)
高く上がった趙勝敏(韓国)のトスから放たれるサーブをすばやくリターン。趙の返球がネットにぶつかり優勝を決めた直後、吉村和弘は後ろ向きになって両膝をつき両手を天に突き上げた。最後こそ鋭いフォアハンドリターンで勝負を決めたが、要所で光っていたのは「日本屈指」との呼び声が高いバックハンドだった。
5月27日、香港オープン男子シングルスでワールドツアーで吉村は初優勝を果たした。
長男・真晴、二男・和弘、三男・友斗の吉村3兄弟の中では真晴がリオ五輪で団体で銀メダルを獲得するなど最も活躍している。だが、和弘は昨年の全日本卓球選手権で準優勝して以来、メキメキとその才能を開花しつつある。今回の優勝は、そのことを証明しているといえるだろう。
スパルタ教育で卓球を習い、兄の背中を追い、追い越そうと地道な努力を重ねてきた吉村の卓球人生は、若干21歳ながら起伏に富んでいる。今も立ち止まらずに走りつづけるのは、小学校から変わらない“ある思い”があるからだ。
「ただ、強くなりたい」
それが、吉村和弘の永遠のテーマである。
和弘、卓球と出会う
「和弘もやるか」
父・弘義の声に、4歳の吉村和弘は「うん」と頷き、ラケットを握った。自宅には、祖父お手製の卓球台があり、3歳年上の兄・真晴がすでに卓球を始めていた。兄の姿を見ていてやってみたいと思うようになったが、当時は「卓球」をやるという感覚ではなかった。
「完全に遊びの延長です。だから、すごく楽しかった」
卓球は楽しい――それが意識の中に擦り込まれた吉村は、これ以降、この原体験があらゆる行動の規範になっていく。小学校に入り、吉村はスポーツ少年団の「東海ジュニア卓球クラブ」に所属した。地元・東海村にあるジュニア世代専門の卓球クラブで、父はそこのコーチだった。
「自分の意志じゃなくて、いつの間にか入っている感じでした」
兄・真晴は一足先にチームのメンバーとして所属していた。父の指導のもと、兄の背中を追うように吉村の卓球人生が幕を開けた。だが、待っていたのは厳しい練習だった。大人になった今だからこそわかる。楽しむためには強くならねばならない。ただ、強くなるためには楽しいばかりではないのだ。
「なんや、その打ち方は!そんな手打ちで入るか」
真晴が父に怒鳴られ、泣きながら卓球する様子を目の当たりにし、腹をくくった。父の指導は、他人の子供たちを前にしているだけにわが子には余計に厳しかった。もちろん、卓球が強くなってほしいという深い愛情ゆえの厳しさなのだが、それが小学校の子供に分かるはずもない。
父から叩き込まれた両ハンド卓球
「両ハンドで打て」
毎日、午後5時から始まる練習では、バック、フォアの両方をバランスよく使いこなすスタイルの確立を目指すべく、容赦ない厳しい指導が行われた。まさに「巨人の星」の星一徹だ。日々の練習は張りつめた空気の中で始まる。“一徹”の指導は容赦ない。ときには自分を目がけてピンポン球が飛んできた。練習が終わっても、家に帰るまでの時間は車内で反省会が始まる。
「兄弟の中で誰が最初に名前が呼ばれるのか、すごく恐かった。呼ばれたら車中は地獄でした」
助手席はその日の父からの指導を真正面から受ける“特等席”だ。無論、後部座席とて油断はできない。「バックミラーに映る父の顔ばかり見ていました。なんか、こっちに怒りがくるなぁーって思うと、もう覚悟してましたね(笑)」。そう苦笑する。バックミラー越しに父の怒った目が合うと雷が落ちる。真晴と和弘の卓球漬けの日々は家に帰っても終わることはなかった。
そんな吉村にとって学校は唯一の息抜きの場だった。3ミリの坊主頭がトレードマークの少年は、とにかくやんちゃだった。学校ではよくケンカをした。ドッジボールのボールの取り合いでケンカを始め、先生が止めに入ることもしばしば。ただ、天性の人懐っこさも幸いし、ケンカをしてもすぐに仲直りして友達と遊んだ。
ただ、日々の生活の中心には卓球が据えられている。それも“強くなるため”の練習が。どんなに遊んでも父が帰宅するまでに家にいないといけない。遊びたい盛りの吉村は父の仕事帰りの時間を把握し、その時間に間に合うようにギリギリまで遊んでから帰った。たまに想定時間よりも父が早く帰宅していると、「落雷」に遭うのだ。スパルタとも思える日々の中で吉村が食らいついて練習を続けられたのはシンプルな理由だ。
「それは試合に勝てたからですね。全国大会に出るのが楽しかったし、その大会で試合に勝つのがすごくうれしかった。練習は面倒くさいけど、成長して強くなっていくのが嬉しくて。怒られても試合に勝てるならと思っていました」厳しい父も、試合に勝った時ばかりは褒めてくれた。試合に勝ったことと同じくらい、父からの「よくやった」の一言が嬉しかった。
卒業文集に書いた将来の夢
「でも、1度だけ勝っても怒られたことがありました」
それは第17回東アジアホープス大会の日本代表選考会に出場した時だった。当時はフォアハンドを主体とした選手が多い中、父からは試合前に「両ハンドを使え」と言われていた。だが、「勝ちたかった」吉村は、得意のフォアだけで試合を戦った。3-0で勝ったが、父の目は笑っていなかった。試合に勝った和弘に向かって、父は「両ハンドでやらないと意味がないだろ」と強く言い聞かせた。
「両ハンドは練習ではやるんですけど、試合ではあまり使ったことがなくて……。お父さんが決めた両ハンドのプレースタイルでやれってことなんですが、やっぱり勝ちたいじゃないですか。それで得意のフォア、フォアになってしまったんです」
父が要求していたのは試合の勝ち負けだけではない。「その先」を見据えていたのだ。ただ、勝てばいいというわけではない。より強くなるためには試合も練習の一環であり、そこでやらなければならないことがある。それは勝負以上に大切なことであるということを、まだこの時の吉村は気が付いていなかった。この一件以降、和弘は「両ハンド」スタイルを強く意識するようになった。
「そこから迷いなく、両ハンドで戦うようになりました」
それは、小4で真晴が全日本卓球選手権カブの部で優勝したのも大きく影響していた。兄弟で一番強いのは兄であることを認めつつも、いつかは自分が兄に勝つんだという熱い気持ちが芽生え始めていた。そのためには両ハンドで戦うスタイルを確立することが必要だった。
小6の時、卒業文集に将来の夢は、「プロ卓球選手」と書いた。
「ただ強くなりたい。それしか思っていなかったですね」
12歳の春、吉村は大きな決断を下す。強い卓球選手になるために北に向かったのである。
>>野田学園への転校、初の日本一から卓球人生最大の挫折へ【吉村和弘インタビュー#2】
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「兄・真晴、弟・和弘ともプロ卓球選手として世界を舞台に戦っています。兄弟で日本卓球界の発展に貢献していきたいです」。
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