文:武田鼎(ラリーズ編集部)
松平賢二の軌跡をたどる連載第3回。青森山田に入学した松平は厳しい現実に直面する。同期にして最強のライバル・水谷でさえも苦しみ続ける厳しい環境に身を置き、苦悩する松平。「青森山田ではまずは練習してもらうところから」その言葉の真意は…
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“凡人”松平がみつけた「生存戦略」
「まず練習してもらわないと」とはどういうことか。「練習内容や練習相手も吉田先生が組むわけじゃないんです。前の日とかに『明日やろうぜ』で終わりです。だからいかにして強い人の練習相手になってもらうかが大事なんです」と暗黙のルールを語る。だが、強い選手の練習相手になることはそう簡単ではない。「人気がある人は3日前に“予約”でいっぱい。頑張って予約しても、しかもあまりにレベルが違うと吉田先生から『お前はまだこんなとこ来るな』って言われて練習中止」。実力不足なら頭を使う。松平は一つの答えを導き出す。「じゃあどうやって強い人に“指名”されるか」。
「だからまず夜練でめちゃくちゃ頑張ること。そうしたら先輩が見てて、『じゃあちょっとやる?』っていう一言を待つ。そこでだんだん教えてもらいながら、『ああ、お前結構やりやすいねえ』って信頼を勝ち得て『じゃあ明日、普通に練習しようよ』ってつながっていくんですよ」。“見えるように頑張る”とは地味で涙ぐましい行為に思える。だが、天才たちが集う青森山田に入って、“凡人”の松平が見つけた生存戦略なのかもしれない。
写真:伊藤圭
そうして練習相手を見つけると次はいよいよベンチ入りだ。高1の松平がベンチ入りを狙うのは「ラスト1席」の状況だった。「同年代には水谷いましたし、1個上の学年もめちゃくちゃ強くて」。当時の高3には横山友一(岡山リベッツ)・森田翔樹(現フリューゲル卓球クラブ代表)が、そして高2には大矢英俊(東京アート)・高木和卓(T.T彩たま)に大谷兄弟もいる。「じゃあその“次”と目されていた1学年上の瀬山辰男(元リコー卓球部)さんを越えよう」と目標を定めていた。
そのための試練が午前最後の「エレベーターゲーム」という練習だ。短い試合をこなし、勝てば上級者のいる台へ「昇格」し、負ければどんどん「降格」していく。「まずは20台くらいの台の中で吉田先生が集中的に見てる4台があるんですよ。そこに入らないといけない。“吉田台”に定着していかにアピールするかが勝負です」。“吉田台”に入ればしめたもの。そこからは猛アピールだ。
こうして涙ぐましい努力でなんとか“あと1席“をものにした。だが、その間同期の水谷は、目覚ましい活躍を見せ、”大出世“をしていた。ていた。2005年のインターハイ団体決勝でのことだ。当時、インターハイシングルス3連覇中の岸川聖也(仙台育英高校・現T.T彩たま)に「自分を当ててください」と直訴、見事破ってみせた。「もう『普通にこいつすげーな!』って思ってました。かたや勝利でチームに貢献、かたやベンチになんとか食い込んで吠えてるだけ」と笑いながら振り返る。
写真:伊藤圭
「あ、でも僕多分伝説作ったんすよ」と切り出す。「ベンチの吉田先生の隣に座ったら、100%の確率で指導が入るんすよ。チームがミスしたら。でも僕はその隙すら与えないぐらい立ち上がって『ドンマイ!!ドンマイ!!!』って吠えてた。そこは先輩たちの目に止まって、1年生だったんで、『おまえ吉田先生の隣な』って。こんな風にベンチでの存在感を作り出していったんですよ(笑)」。どんな方法でもいい。泥臭く、自分にしかできないことを探すようになったのは松平の生来の性だろうか、それとも水谷という不世出の大スターの輝きゆえだろうか。
だが、学年が上がれば、今度は自分がチームを引っ張る立場になる。荒削りだった松平が名将・吉田監督によって「したたかさ」を身につけ、「アスリート」へと変貌を遂げていく。
撮影地:協和発酵キリン卓球場