文:戸澤しおり(ラリーズ編集部)
兵庫県出身の現役女子大生Tリーガー、打浪優。Tリーグ日本ペイントマレッツで加藤美優らと肩を並べる、いま最も注目したい選手の一人だ。
両ハンドドライブ攻撃を得意とし、感情をむき出しにするプレースタイルは、見るものすべての闘志に火をつけ、会場の熱気を一気に最高潮に持ち上げる魅力を持っている。
卓球を始めたのは小学校高学年になってからとのこと。そこから10年足らずで、一流のプロ選手として活躍するようになった。就学前から厳しい練習をする「英才教育」が一般的になってきた卓球界においては、異色の存在かもしれない。
「小さい頃から卓球をやっていなくたって、努力次第でプロになれる。それを体現したくてTリーグの参加を決めた」そう語る打浪の卓球の原点、そして今後の展望に迫った。
卓球を始めて2週間で市のベスト8 半年で県大会出場
打浪が最初に卓球に触れたのは小学校4年生のとき。
2つ上の姉が卓球をしていて、その練習を見に行くようになり自分もやりたくなったのがきっかけだという。
「周りに比べたら私は卓球を始めたのは、ずっと遅い方だと思います」そう話す打浪だが、卓球を始めてから2週間で市内大会に出場し、初出場にもかかわらずベスト8に入賞した。既に打浪の才能は驚異的に開花していたのだ。
「勝つ喜び」や「試合の面白さ」を体感した打浪は、もっとハイレベルな大会に出場したいと思うようになり、本格的に卓球を始める。さっそく姉の通う卓球教室の紹介で、地元・兵庫にある名門、伊丹卓球教室に通い始めた打浪は、教室に通ってわずか半年で県大会に出場する有力選手となる。
しかし信じられないことに、その時期、打浪は唐突に卓球から身を引こうとした。
「伊丹卓球教室に通っていた時期と同じころ、バレーボールもやっていたんです。両方続けていくうちに、バレーボールでもっと強くなりたいと考えるようになって、伊丹卓球教室を辞めることにしました」
なんという驚きの決断である。しかし卓球の神様は、打浪の才能を手放したくなかったのかもしれない。伊丹卓球教室を紹介してくれた人が、卓球から離れた打浪に新たなクラブチームを紹介した。
「今でもなぜ私を連れて行ってくれたのか、真相は分かりません」バレーボールに注力するつもりだった打浪だが、紹介されたクラブチームには自分よりも年上の中学生や高校生の選手も多く所属しており、非常にレベルが高く、とても魅力的に思えた。そうして打浪は、再び卓球の世界へ戻ってきた。
この一連の出来事が、卓球に出会った小学4年生から卒業するまでのわずか3年弱の間に起きたというのが驚きだ。
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初めてぶつかった『壁』 超えた先に待っていた『青春』
新たなクラブでの卓球生活が始まった打浪。高校は全国大会の常連校・奈良女子高校に進学したが、初めから順風満帆な選手生活ではなかったという。
「高校1年生の頃は団体戦にあまり出場する機会を貰えなかったことや、個人戦で全国大会に出場したときは1回戦負けをするなど、成績が安定しませんでした。思うように強くなれず、悔しい想いを何度も経験しました」
それまで何度も勝利の喜びを経験していた打浪だからこそ、この高校1年生で直面した壁の存在は大きかった。目の前に立ちはだかったこの大きな壁を、打浪はどのようにして乗り越えたのか。それには高校時代の恩師の存在が深く関わっていた。
「高校2年生になったとき、顧問の先生にすごく気にかけていただけたのが大きかったです。1年生の頃は練習や試合に対して意見をされることは無かったのですが、2年生になってから私に対してたくさん言葉をかけてくれて、より具体的で実践的な指導をしてくれるようになりました」
この指導の甲斐あってか、その年の高校選抜に選ばれ、打浪の所属するチームはベスト8という結果を残すことになる。
「全国大会の常連校だったけれど、今まで上位に成績を残すことはなかったので、この結果はとても嬉しかったし、強くなったと実感出来ました。だから、高校2年生の頃は、今までの卓球人生で一番楽しかったですね」
多くのアスリートにとって、高校時代はその後の選手人生に大きな影響を与える時期だ。
だからこそ、長い選手人生の中で高校時代が一番大変な時期だった、と口にする選手も少なくない。そんな中で打浪は、この高校2年生という多感な時期が「一番楽しかった」と話している。
「確かに、練習も厳しかったですし顧問に怒られることが嫌だと感じることもありました。それでも辛いことや、苦しいことを乗り越えた先に待っていた高校選抜への参加や、全国ベスト8という結果は、私にとって『青春』を体感できた出来事でした」
最高の青春の1ページを刻んだ打浪。周囲からは、このままのペースで卓球のキャリアを進めていくと思われたが、高校3年生になると打浪を取り巻く環境は少しずつ形を変え始める。
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写真:打浪優(日本ペイントマレッツ)/提供:T.LEAGUE
高3のプレッシャー 進路の迷い そして女子大生Tリーガー誕生へ
「高3になると、最高学年として、高校の成績がこれで決まるというプレッシャーを感じる日々が続きました。また、全国で結果を残せるようになると同時に、自分の名前が知れ渡っていくプレッシャーもありました。だから、インターハイ予選で負けたらどうしよう、結果を残せなかったらどうしようと考えて、不眠に悩む日々が続いたり、胃腸炎を患いながら試合に出場することもあったんです」
高く評価される機会が増え、自分が強くなったことに自信を持てた半面、実際の試合では思うような結果を残せず、出鼻をくじかれるような思いにも苛まれた打浪。
「今だから言えますが、あの頃の私は自分が強いと思い上がっていて、自分自身をがんじがらめにしていたのだと思います」
大学進学を前に、自分の将来について非常に悩んでいたという。「卓球を続けるか、もう一つの自分の夢を取るか。本当に悩みましたし、たくさんの人に相談もしました」
卓球と天秤にかけるほど人生の大きな選択肢になっていた夢とは、一体何だったのか。
「養護教諭です。学生時代、保健室の先生には本当にお世話になっていました。だから自分も生徒の心に寄り添える養護教諭になりたいと考えていたんです。だけど、周りからの後押しもあり、卓球で生きていく将来を思い描いて、最終的に卓球の道を選びました。神戸松蔭女子学院大学に進学したときには、もう卓球でキャリアを積むことを決めていたので、今の選択に後悔はしていません」
この時の決断が、現在のTリーガー打浪優が生まれる布石となった。打浪の、神戸松蔭女子学院大学での生活がいよいよ幕を開ける。(第2回に続く)