故・荻村伊智朗(おぎむらいちろう)氏の卓球ノートが自宅から発見された。
荻村氏は選手時代に世界選手権で12個のタイトルを獲得、引退後はITTF(国際卓球連盟)会長も務めた日本卓球界のレジェンドだ。その偉大なる功績から、ITTFジャパンオープンでは、1995年大会より「荻村杯」の称号が付与されている。
本企画では、長男・一晃(かずあき)氏が、「ミスター卓球」とも呼ばれた父・伊智朗氏の人生を、“世界一の卓球ノート”から読み解く。
荻村伊智朗、卓球と出会う
写真:自宅から発見された荻村氏の卓球ノート/提供:荻村一晃氏
1932年(昭和7年)に生まれた荻村伊智朗は、2・26事件や第二次世界大戦などが起こった日本の動乱期に幼少期を過ごす。
3歳になる前に父を亡くした荻村は、裕福とはいえない中、自然と戯れる好奇心旺盛な子供だった。成長していく中で戦渦が激しくなり、特攻隊になることさえも覚悟していた。
後に「私たちの時代は選択肢が多くなかったので、卓球と勉強に集中しやすかった。今の若い人たちはやれることや出来ることがたくさんあるので、卓球と勉強に集中しにくい環境だから大変ですね」と語っていた。
当時は進駐軍駐留時代だったこともあり、英語に興味を持った荻村は一時期通訳養成所に入っていたこともあった。
卓球を始める前はなかなかの強豪チームで少年野球を楽しんでいて、そこのピッチャーだった。野球で相当な成績を残していたため、野球から卓球に転向した時に、チームメイトから反対にあった。
少年野球のチームメートは、わざわざ大学生の卓球選手を連れてきて、卓球はやめた方が良いというアドバイスを言わせた。その時の理由が「第一に素質がない。第二に君は顔色が悪いから屋内スポーツをやると肺の病気になる」という2点だった。
荻村はその話を聞いてショックを受けた。父親が肺の病気が原因で亡くなったからだった。
しかし、荻村は卓球をやめる気にはならなかった。
卓球部を新設した高校時代
高校の先輩の美しいフォームを見て卓球を始めた荻村だったが、都立西高校には卓球部がなかった。卓球台も板を張り合わせた“のような物”しかなかった。
そして卓球部を作るべく高1の7月に校長と話をしに行くと、3つの条件を言われた。
1.部室は作らない。
2.卓球台は買わない。
3.予算はつけない。
その報告を受けた部員達は、3つの条件にもかかわらず大変喜んだ。そして皆でアルバイトをして卓球台を買うことにしたのだ。
肉体労働やおつまみ売りなど色々なアルバイトをしたが、それにはヤクザ/チンピラのピンハネが付き物だった。殴られながらもチンピラとのつきあいに節度を持ち、3ヶ月ほどで卓球台を買えるお金が集まった。
卓球台を買えるまでは、練習試合と称して他校に出かけていた。あまりにも頻繁に練習試合にくるので目的がばれ、他校からは敬遠されるようになっていった。
ようやく10月にお金が貯まり、渋谷で購入した卓球台をリヤカーに載せ往復約20キロの道を持ち帰った。そして西高卓球部が本格的に始動することになった。
>>【連載】息子が読み解く“世界のオギムラ”〜卓球ノート#2 ~
企画協力:Labo Live