写真:北京五輪でミズノのシューズでプレーした馬琳(マリン・中国)/提供:AP/アフロ
卓球インタビュー [PR] 卓球中国代表とのシューズ契約が転機 ミズノ、卓球業界挑戦の歴史[PR]
2021.05.30
総合スポーツメーカーのミズノは、卓球界では新興メーカーながらも、世界卓球銀メダリストでTリーグでも活躍する男子トップ選手の大島祐哉(木下グループ)に選ばれた。今、大島はラバー、ラケット、シューズなどすべての用具をミズノで戦う。
だが、男子トップ選手が納得する用具を開発するに至るまでは、苦難の連続だった。
今回は、ミズノで卓球事業の立ち上げを中心となって進めた玉山茂幸に卓球事業黎明期を振り返ってもらった。
>>第1話はこちら 「大きな決断でした」なぜ大島祐哉は卓球専門メーカー以外の用具で戦うのか
このページの目次
卓球事業強化のきっかけは福原愛さん
2002年、ミズノが卓球事業に本格的に乗り出した。きっかけは、ミズノの卓球シューズをとある大物選手が気に入って履いてくれるようになったからだ。
それが、当時中学生の福原愛さんだ。
写真:2003年世界卓球での福原愛さん/提供:築田純/アフロスポーツ
当時、卓球は今よりも遥かにマイナーな競技だった。その中でも福原さんは、“天才卓球少女”として一般にも高い知名度を誇っていた。多くの競技の1つとして卓球シューズを扱っていたミズノにとって、“愛ちゃん”というフックはチャンスだった。
写真:小学生時代から人気を誇っていた福原愛さん/提供:川窪隆一/アフロスポーツ
「愛ちゃんから意見を吸い上げるには、やはり卓球を経験している人間がサポートするのが良い」。高校まで卓球部に所属していた玉山に白羽の矢が立った。
写真:玉山茂幸(ミズノ)/撮影:槌谷昭人
これは入社9年目の玉山にとってもチャンスだった。
「卓球は高校で辞めて10年以上離れていたスポーツなので困惑もあった。でも自分がやってきたことが活かせる。自分の仕事が次のステップに行けると思った」。
野球などのメジャースポーツと違い、当時のミズノ全体の売上に占める卓球の割合は1%以下で、売れるのはシューズのみ。卓球事業での営業やマーケティングはほとんど行われておらず、卓球事業拡大に向けてほぼ0からのスタートであった。
商品力への自信と執念ともいえる情熱
だが、玉山は卓球事業を大きくする自信があった。
「商品が悪かったら諦めがつく。でもミズノの商品は現場ですごく評価されていた。『素足感覚でフィットして柔らかくて軽い。床を掴む感覚が良い』と愛ちゃんら、トップ選手は言ってくれていた」。
玉山はシューズを持って日本各地を巡った。「とにかく一回履いてください」。ショップや強豪校にお願いして回った。「他のメーカーにお世話になってるから」と何度も門前払いを食らった。「試合前なのに何だおまえは」と叱られたこともある。
玉山は全く折れなかった。「商品は良い。良さを知ってもらえれば受け入れてもらえる」自信が執念をもたらした。
写真:玉山茂幸(ミズノ)/撮影:槌谷昭人
「悔しかったんですよね。誰もミズノ卓球に見向きをしてくれなかった。いつか花が開くと思ってがむしゃらにやってました」。
徐々にミズノの卓球シューズの評判が変わり始めた。
「『履いたら良かったよ』『口コミが良いらしいね』みたいな声が聞こえてきた。1回訪問した卓球部の先生から『生徒がまた履きたいと言っている』と連絡が来れば、『すぐに行きます』と現場に持って行ってました」と玉山はしみじみと思い返した。
ターニングポイントとなった中国代表チームとの契約
2003年には福原さんが14歳で世界選手権に初出場し、ミズノのシューズを履いてプレーした。その効果もあり、卓球シューズのシェアが伸び始めた。
写真:2003年世界卓球でミズノのシューズを履いてプレーする福原愛さん/提供:アフロ
そして、ミズノの卓球事業のターニングポイントとなる出来事が2007年に訪れる。
“卓球王国”中国代表チームがミズノとシューズ契約を交わしたのだ。これがミズノの卓球シューズのシェアを飛躍的に伸ばすこととなる。
きっかけはここでも福原さんだった。
ミズノシューズを着用している福原愛さんの影響が、よく練習に訪れていた中国でも話題となり、試してみたいという中国選手の要望が多く上がってきた。
シドニー五輪のシングルス・ダブルス、アテネ五輪のダブルス金メダリストの王楠(ワンナン)がミズノシューズを履いたことも大きなターニングポイントとなった。
写真:2007年世界卓球でミズノのシューズを履いてプレーする王楠(ワンナン・中国)/提供:アフロ
「中国代表からも『満足できたら契約したい』とシューズについての話が来た。現地に行ってシューズのプレゼンをすると『ミズノのシューズは良いね』と評価された」。
代表全員が満足することが条件だったため、社内の開発担当も含め、半年以上をかけて各選手用にシューズを調整した。その甲斐あって、2007年1月、ついにミズノは正式に卓球中国代表チームとシューズ契約を結んだ。北京五輪では金メダリストの馬琳(マリン)や張怡寧(ジャンイーニン)を含めて、中国代表がミズノシューズでプレーした。
「それまでミズノのシューズの日本国内の評価は、軽くて柔らかいという特徴から女子選手のシェアが高かったが、でも馬琳(マリン)、王皓(ワンハオ)ら中国男子選手もミズノを履き始めた。そこから日本の男子選手も履き始めましたね」。ミズノの卓球事業は徐々に拡大していった。
そしてラバー開発へ
もう1つ、ミズノの卓球事業を振り返る際に欠かせない出来事がある。
2006年のラバー発売だ。
「中国代表とのシューズ契約の話が進んでいた頃、ラバーを出しているんですよ。相乗効果でシューズもラバーも売れた。ミズノの卓球事業の売り上げが伸びて、社内のバックアップ体制も徐々に整いだして、卓球事業の風向きが変わりましたね」と玉山もターニングポイントとして挙げる。だが、卓球用具開発は試練とも言える出来事の連続だった。
(第3話 ラバー事業に新規参入も売れず 卓球事業存続へミズノが決行した“イチかバチかの賭け” に続く)
大島祐哉インタビュー
>第1話 「何かを捨てなきゃ無理」“努力の天才”大島祐哉、夢を夢で終わらせない目標達成の思考法
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特集・なぜ大島祐哉はミズノを選んだのか
取材:槌谷昭人(ラリーズ編集長)