「ラケット持たずに、家族でドイツに遊びに来いよ」青森山田高時代のコーチで、現在ドイツ・ブンデスリーガ1部チームのヘッドコーチである板垣孝司からLINEがあったのは、休養に入ってまもなくの2019年11月のことだった。
その配慮をありがたく思いつつも、うつ状態の上田は乗り気ではなかった。「いや、ただの気分転換みたいな感じでさ」板垣は“何も聞かない”と決めていた。先の予定もなかった上田は、家族と1週間ほどドイツに行ってみることにした。
幼少期から様々な国で国際大会を戦ってきたが、考えてみれば、ラケットを持たずに海外に行くのは初めてなのだった。
ドイツの路地をベビーカーを押して歩く上田仁
>>第1話はこちら 「あのとき僕はうつでした」プロ卓球選手・上田仁が初めて明かす休養の真相
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シュテガー「日本人はもったいないな」
ドイツではブンデスリーガのシーズン中だった。
板垣と上田は、板垣馴染みのレストランに夕飯を食べに行った。
そこに、翌日に試合を控えた旧知の間柄のドイツ代表、シュテガーがいた。1981年生まれの当時38歳、バリバリの現役だ。
写真:バスティアン・シュテガー(ドイツ)/提供:ittfworld
日本では考えられないかもしれないが、ヨーロッパ卓球界には30代後半や40代で、代表クラスの第一線で戦う選手が当たり前のように存在する。
例えば、ドイツのブンデスリーガは1部を頂点として多くの下部リーグがあり、年齢に関わらず各選手がその時々の実力に合わせて現役を続ける、いわば“補欠のいない”制度だ。もちろん待遇はそれぞれ異なるが、クラブチーム文化が根付くヨーロッパには、人生と卓球が長く伴走できるシステムが整っている。
写真:ブンデスリーガの試合の模様
「実は引退も考えている」それとなく打ち明けた上田にシュテガーは聞いた。
「いま何歳だ」28歳だと答えると、シュテガーは考えられないという様子で言った。
「日本人はもったいないよな、むしろこれからなのに」
上田には28歳は引き際を考え始めるべき年だったが、シュテガーは全く違った。
「経験も増えてきて、28、9くらいから身体もいい状態に入ってくる」。
写真:ブンデスリーガの試合の模様
逆に聞かれた。「なあ、今を楽しんでるか。楽しくないと続けられないぞ」
写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織
上田がヨーロッパ選手に持っている印象がある。
「自分の勝ち負けにすごくこだわる反面、大事な試合に負けてすごく悔しいはずなのに、笑顔で相手の健闘を称えられる」それは、今日も卓球ができることを楽しんでいるからだった。
写真:試合後、握手を交わすティモ・ボル(ドイツ、写真右)とダルコ・ヨルジッチ(スロベニア、写真左)/提供:ittfworld
シュテガーと同い年、“ドイツの皇帝”ティモ・ボルの話も出た。
「ティモなんて、38歳の今が一番卓球楽しいって言ってるよ」。
写真:ティモ・ボル/提供:ittfworld
あんなに長く世界トップレベルで戦う選手も、続ける理由は“楽しいから”だった。
なんで俺はこんなことで自信をなくしてるんだろうと思った。
プロになった理由を、もう一度自分に問うた。
「勝つために自分はプロになったのか。いや違うなと。結局卓球を仕事にしたのは、好きだからだ。代表レースを戦ううちに、結果を出すことばかりに重点を置いて、卓球を楽しめてなかった」。
写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織
「いろんな生き方、いろんなプロがいていい」。その答えにたどり着いたとき、上田は救われたと思った。
あんなに喜べるんですね
ドイツ滞在期間中、上田一家と共に過ごした板垣の妻は、上田の或る台詞が印象に残っている。
気晴らしに皆でボウリング場に行った。
隣のレーンは10歳くらいの女の子たちだった。上田たちが心配になるほど、投げる球全てガーターだが、彼女たちは全く意に介さない。
投げて、投げて、投げて、たまたま端の1本だけピンが倒れた。
女の子たちは、飛び跳ねて大喜びした。
上田がつぶやいた。
「たった1本で、あんなに喜べるんですね」
そこに上田は何を見たのか。
時計の針は再び動き始めていた。
信頼は、思うだけじゃダメだ
日本に戻ると、岡山リベッツのメンバーが満身創痍で戦っていた。どこかで後輩だと思っていたチームメイトたちは、それでもベストのパフォーマンスを見せ続けるプロ選手の姿だった。「尊敬しました」。
写真:咆哮する吉田雅己(岡山リベッツ)/撮影:ラリーズ編集部
休養の理由さえ直接チームメイトにきちんと伝えていない自分を恥じた。「結局、こういうことを言えない自分だったから、考え込んでしまったのだと思った。信頼するっていうのは、思うだけじゃダメだ」。
2月、久しぶりに関東で行われる試合前、チームに時間をもらった。「黙っていて本当に申し訳なかった」正直に自分の病名と現在の状態を話した。
岡山リベッツのファンも、SNS等を通じてずっと「無理しないでくださいね」と温かい声を掛け続けてくれていた。
「最終戦には顔を見せて、岡山のホームでファンの皆さんに挨拶したい」上田は医者にかけ合った。「いきなりはリスクが高い、まずは関東近郊の試合に一度ベンチに入ってから」と釘を刺された。
今度は焦らなかった。
一歩ずつ確実に歩みを進めた。気づけば、気力は戻りつつあった。
写真:ホーム最終戦、ファンへの感謝を伝える岡山リベッツ、左から二番目に上田仁の姿/提供:©T.LEAGUE
コロナがやってきた
そこに、コロナがやってきた。
ブランクはさらに長引くことになったが、不思議と上田の心は揺るがなかった。「そのときできることをやっていれば、いつか道は拓ける」。
絶望の淵で掴んだ信念だった。
自身のもがき苦しんだ日々が、いつか、これから先の誰かの助けになるかもしれないと思った。「まずはコートに戻ること。そしてしっかり復活して、あんなことがありましたって言えるようになったときに、すべてを公表しよう」
写真:上田仁(T.T彩たま)/提供:田口沙織
2020年11月18日、Tリーグ3rdシーズン第二戦。
上田仁はコートに戻ってきた。
実に396日ぶりの公式戦だった。シングルスでは伸び盛りの16歳の若手をゲームオールで下して勝利した。
「コートに戻ってくるまでたくさんの人に支えてもらった。正直、コートに立ったとき、泣きそうになった」
写真:上田仁(岡山リベッツ)/撮影:ラリーズ編集部
上田仁が、戻ってきた
そして、3rdシーズン通算戦績はといえば。
上田は全21試合中18試合に出場し、単複合わせて10勝12敗。
最終戦終了後、どんなシーズンだったか問うた。
「自分が復帰できたことはあるんですが」と前置きした上で、上田はこう言った。
「コロナ禍でもみなさんのおかげでTリーグが試合を行えた、そこが一番良かったです」
僕らの知る上田仁が、戻ってきた。
写真:上田仁・森薗政崇ペア(岡山リベッツ)/撮影:ラリーズ編集部
ところで、ヘミングウェイの短編小説にこんな言葉がある。
「スポーツは公明正大に勝つことも、威厳をもって負けることも教えてくれる。
つまり、すべてのことを、人生ってやつを教えてくれるんだ」
そして、上田仁の移籍が発表されたのだった。
(>>【第3話】プロ卓球選手・上田仁、カムバックを懸けた異例の“オープン戦” はこちら)
上田仁 過去インタビュー(2018年)
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