(取材・文:川嶋弘文/ラリーズ編集長)
「このままでは終わりたくない」
昨年12月、卓球シングルスでの東京五輪代表入りを逃した後、水谷隼(30)は報道陣に対し、こうコメントした。
4年前のリオ五輪で男子卓球界初となるメダルを獲得した第一人者が、シングルスの代表を張本智和(16)、丹羽孝希(25)に明け渡した瞬間だった。
思えば、水谷隼の卓球人生は苦難の連続だった。
写真:伊藤圭。五輪を迎えるたび、困難を乗り越えてきた水谷
19歳、日本の卓球が「歴代最弱」ともいわれた時代に必死に掴んだ北京五輪への出場権。
23歳、ロンドン五輪後の国際大会ボイコット。
そして27歳で初のメダルをつかんだリオ五輪の後、襲いかかった原因不明の視界不良。
輝かしい水谷のキャリアの裏側には常に苦悩がつきまとう。
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4度目の五輪出場、代表決定の瞬間は?
そんな水谷に今年1月6日、安堵の瞬間が訪れる。
自身4度目となる五輪への出場が決定したのだ。その地は東京、しかも団体と混合ダブルス(ペア伊藤美誠)の2種目への出場が決まった。
その時、水谷は。
「勝手に一人でよっしゃ!って言って誰もいないのに一人でやってました」。
また1つ、壁を乗り越えた瞬間だった。
北京、ロンドン、リオそして今回の東京と4度の五輪を迎えるたび、水谷はどのように困難を乗り越えてきたのだろうか。
「このままでは終わりたくない」熾烈な選考レース
東京五輪の代表選考レースの基準となったのは2020年1月発表の世界ランキング。「試合に出続けないと世界ランキングポイントが維持できない」というルール変更が大きく影響し、水谷に限らず全ての日本選手が約1年間、過酷な戦いを強いられた。
「あんまり一つ一つの大会は覚えてないですね。たくさん試合がありすぎて、あっという間にときが過ぎていったので。一年間、ほんとにあっという間でした」。
昨年12月のグランドファイナルで敗れ、シングルスの代表権を逃した際には「状況的には厳しかったので、気持ちの整理は結構前からできていた。まったく後悔はない」と気丈にコメントする一方で「もうちょっといいパフォーマンスをしたかった。1年通して納得できる試合は1試合もなかった」と心中を吐露した。
「まだ五輪に出場できる可能性はあるので前向きに考えている。(五輪代表に)選ばれたらこのままでは終わりたくない」と願っていた中での代表決定だった。
残るメダルは金メダルのみ。その確率は、、、
4年前のリオ五輪で団体銀、シングルス銅の2つのメダルを獲得した水谷にとって、まだ手にしていないメダルの色は“金”だけだ。
水谷に東京五輪でのメダルの可能性について聞くと、真っ先に混合ダブルスについての答えが返ってきた。
「ミックスのメダルの可能性っていうのは、65~75%ぐらい。金メダルの可能性は20%ぐらいですね」。
同じ静岡県磐田市出身のダブルスパートナー、伊藤美誠とのペアリングについても好感触を得ている。
「相性がいいっていうのはもちろんありますし、二人ともダブルスの力を持っているのもそうですし、美誠が女子のパートナーとしては最強の選手です。やっぱり僕はその力を最大限引き出せるように、上手くアシストできたらな、と思ってます」。
写真:ittfworld。金メダルが期待される伊藤美誠との混合ダブルス。
3種目に出場する伊藤美誠のスタミナについても「オリンピックのスケジュールは他のツアーに比べたら余裕がある。多くても1日2試合で、かなり時間も離れてる。そういう意味では、調整はものすごくしやすい。3種目あったとしてもケガさえしなければ、そこまで疲労が溜まっていないんじゃないかな」と心配はなさそうだ。
「7月頃になったらもう海外の試合もなくなるし、かなり混合ダブルスの練習に時間を割くと思います。僕がサービス、レシーブのときの失点率がものすごく高い。やっぱり自分がもっともっとサービスの精度を上げていかないと美誠がやりにくい」。
金メダルへのキーパーソンは自分だと自覚を強めているようだ。
団体戦「キーになってくるのは僕」
リオで銀メダルだった男子団体については、まずは五輪本番で決勝まで中国と当たらない組み合わせを目指す。現在日本男子はチームランキングで世界3位につけているが、五輪までに2位のドイツを抜けるかどうかでメダルの確率が大きく左右される。
写真:ロイター/アフロ。リオ五輪団体銀メダルを獲得した水谷隼、丹羽孝希、吉村真晴
「そうですね。団体戦のシングルスでも自分が取ることも大事ですし、団体戦で第2シード勝ち取るためにこれからオリンピックまでの試合で自分がシングルスの成績を上げていかなければならない。かなり重きを置いてやっていきたいと思ってます」。
3月時点の世界ランキングでは、
日本は張本智和(5位)、丹羽孝希(12位)、水谷隼(15位)
ドイツはボル(10位)、オフチャロフ(11位)、フランチスカ(14位)
と混戦を極める。
「キーになってくるのは僕ですね。僕がドイツのフランチスカを抜けるかどうかだと思います。張本がオフチャロフやボルに抜かれることはまずないと思うんですけど、それも絶対ではないんで。ここからもみんな試合に出続けます。」
写真:ittfworld。1月のドイツオープンではラケットを変えて出場。ここから東京五輪に向けて照準を合わせていく
過酷な代表選考レースを終えても、水谷に休んでいる暇はないのだ。
「一番の理想は、自分が昔みたいに強くなって、シングルス2点で出るっていうのが、みんなの理想だとは思う。そう思うことが自分の成長に繋がると思うんで、オリンピックまではそのつもりで準備していきたいですね」。
その覚悟が、用具へのこだわりの強い水谷のラケットにも現れている。
「最近ラケットを変えたんですよ。グリップをストレートからフレアに。変えるのは2010年のジャパンオープンの時以来なのでそれこそ10年ぶりですね。ある意味、プレースタイルの変更を求めにいった、っていうのはありますね。やっぱりバックが振りやすくなった。今使ってるラケットは、自分の感覚としては今までの中で一番しっくり来てる」
写真:伊藤圭。この左手が日本卓球界の歴史をリードしてきた
水谷隼は五輪までの数ヶ月でまだ強くなろうとしている。この飽くなき向上心と、五輪イヤーに照準をあわせる能力の高さが水谷の真骨頂だ。
「オリンピックに出場できるかどうかもわからなかった」苦悩の初五輪予選
水谷に過去4度の五輪について聞くと、出場権を得るために苦労をしたのは今回の東京五輪、そして、初出場となった2008年の北京五輪だという。
「あの時は…オリンピックに出場できるかどうかもわからなかったですね。日本人が。」
当時の日本の男子チームは2006年の世界選手権(ブレーメン大会・団体戦)で史上最低となる14位を記録。松下浩二、韓陽、吉田海偉らのベテラン選手から岸川聖也、水谷隼らにバトンが渡されようかという時期。この大会で水谷も3試合に出場し、3敗という成績だった。
実はこの時、水谷はある悩みを抱えていた。
当時最年少(15歳)で世界選手権に初出場した2005年。その年の秋に水谷にアクシデントが起こる。卓球留学先のドイツで足に痛みが走ったのだ。
医師の診断は「脛骨疲労骨折」。全治1年半と言われた。
過去のハードワークによる疲労の蓄積が原因の骨折で、陸上選手やバレーボール選手にも多い症状だ。
「ブレーメンの世界卓球の前だったんですよ。ずっと2ヶ月間ぐらい足に違和感があって。でもずっと練習はしてたんですけど、足が痛いという話をマリオ(アミズィッチコーチ)にしたら、『病院行ってこいよ』って言われて。それで、検査したらヒビが入ってて」。
写真:アフロ。左からマリオ・アミズィッチ氏、水谷隼、岸川聖也(写真は2007年当時)
医師からは全治1年半と診断を受けた。
「1年半卓球しなくてすむんだ、と一瞬思ったんですけど、でもやっぱりそうなると逆にやりたくなるんですよね。やれないと思うとやりたくなる。結局疲労骨折をしながら全日本に出て、松下(浩二・現Tリーグチェアマン)さんに負けて。ブレーメンの世界卓球にも出て、全敗で」。
1週間から10日程度休んでは、結局練習や試合を繰り返す日々が続いた。
そんな時、水谷に救いの手を差し伸べたのは青森山田高校の監督だった名将・吉田安夫氏だ。
写真:築田純/アフロスポーツ。2007年全日本選手権での吉田安夫氏(左)と水谷隼。
「静岡の実家に吉田先生が泊まりに来たんですよ。わざわざ来て『大丈夫か?』って。それから『温泉行くぞ』って、静岡の温泉に行って、二人で泊まりました(笑)。荒川静香さんがトリノで優勝するところを見ました。二人で。」
恩師とともにテレビで見た荒川静香の金メダルは、水谷が五輪への思いを強くした瞬間でもあった。
写真:青木紘二/アフロスポーツ。水谷が影響を受けた荒川静香の金メダル
その後、ケガを乗り越えた水谷は、日本のエースとしての自覚を強める。2008年2月の世界選手権(広州・団体戦)では、ドイツ、台湾などの強豪を倒し、日本男子8年ぶりとなる銅メダルを獲得した。前回大会から11ランクアップの快挙である。
そして直後の北京五輪アジア大陸予選会では、岸川聖也、蒋澎龍(台湾)にともにゲームカウント4-3で勝利。死闘を制し、記念すべき五輪初出場を決めた。
北京五輪予選で戦った岸川とペアを組んで五輪本番(団体戦)を戦った。写真:AFP/アフロ
「そのときは世界ランキングが低かった(29位)ので、アジアの予選を勝たないとオリンピックには出られなかった。中国選手に加えて香港、台湾、北朝鮮、シンガポール、韓国。そういう中から各国2人出てて、7人ぐらいしか通過できなかったんで。その7人ぐらいに入るのがめちゃくちゃしんどかったです」。
初の五輪、強烈に意識したのは“最強中国”
迎えた北京五輪本番では、団体は準決勝でドイツに敗れメダルを逃すと、シングルスも3回戦敗退と不完全燃焼に終わった。
写真:AFP/アフロ。初出場となった北京五輪
水谷にとって初の五輪は“中国の強さ”を心に刻んだ大会となった。地元中国は男女シングルスの金・銀・銅と男女団体の金の合計8枚のメダルを総ナメにし、圧倒的な強さを見せつけたのだ。
写真:AP/アフロ。北京五輪でシングルス全てのメダルを独占した中国勢
北京五輪を終えた水谷は、世界最高峰の中国超級リーグへの挑戦を決意し、さらなる高みを目指すこととなる。
所属した浙商銀行チームでは北京五輪金メダリストの馬琳(マリン)と同じチームとなり、技術、戦術に加えその勝利への執念を吸収していった。そして4年後のロンドン五輪を制すことになる中国の張継科(チャンジーカ)を破るなど、3シーズンの中国リーグ参戦によりメキメキと力をつけていった。
水谷は北京からロンドンまでの4年間を「自分の中で一つのピーク」と振り返る。
写真:伊藤圭。10年以上前から世界ランク上位を維持し続ける水谷
「非常に良い状態だった。初めてワールドツアー優勝したのもこの頃ですし、2010年にはグランドファイナルも優勝できた。モスクワの世界卓球でティモ(ボル、ドイツ)に勝ったのも10年前。これまでの人生でもすごく楽しかったのは覚えてますね。大学行って、高山さん(幸信氏、明治大学監督)と一緒に生活して、大学生らしいことはほとんど何にもしてないんですけど、ただ二人三脚で必死に頑張ってたという思い出があります」。
「なかなか寝れなかった」ロンドン五輪
世界ランキングも1ケタとなった水谷は、予選免除でロンドン五輪への出場権を得る。自身2度目の五輪に向け万全の準備をして臨んだ。
「ロンドンの前、吉村(真晴)に全日本選手権で負けて、気持ちが少し落ちたのですが、その後、ジャパンオープン優勝したりとか、ロンドンに向けて非常に良い仕上がりで。かなり良い状態でロンドンに行けたのは覚えてますね」。
写真:アフロ。ロンドン五輪ではメダルを期待され、寝れなかったという
ところが、迎えたロンドン五輪では団体戦準々決勝で水谷が2勝を挙げるも、他でポイントを挙げられず日本男子は香港に敗退。メダルが期待されたシングルスでは、直前のジャパンオープンでストレート勝ちしていたメイス(デンマーク)に0-4でまさかのストレート負けを喫した。4年前とは異なる周囲の期待も、水谷に少なからずマイナスの影響を与えた。
「緊張でしょうかね?北京に比べたらロンドンでの注目度って一気に上がったんですよ。一気にメダルを期待されて。世界ランキングも5位と、すごくいい位置でロンドンを迎えたんで、注目度も上がっていて、なかなか試合のときに寝れなかったのを覚えてますね」。
写真:YUTAKA/アフロスポーツ。ロンドンでは女子が初のメダル獲得を果たした
想像を絶するプレッシャーに敗れた水谷を横目に、平野早矢香、福原愛、石川佳純の女子団体は日本卓球史上初となるメダルを獲得(銀メダル)した。この時の失意とコンプレックスが、後に水谷を奮い立たせる原動力となる。
「一人で強くなってやる」単身ロシアリーグへ
2012年のロンドン五輪の直後、水谷は約5ヶ月間にわたって国際大会への出場をボイコットした。世界中で横行していたラバーへの補助剤使用、いわゆる「用具ドーピング」に抗議するためだった。
国際卓球連盟(ITTF)は2008年のルール改定によりラバーへの後加工を禁じたが、塗るだけでラバーの弾性が増す液体(ブースター)を塗って試合に出る選手は後を絶たない。過去に合法だったスピード接着剤(揮発性有機溶剤)と違い、ブースターは揮発性が少なくラケット検査をしても違反が見つかりにくいためだ。
写真:伊藤圭。水谷が戦うのはコートで対峙する相手選手だけではない
「ブースター問題も2009年ぐらいからずっと言ってたんですよ。このときは本当にいろんな人の力を借りて、自分のできることを全てやったと思うんですけど、なんか力の無さを痛感しましたね。ただただ無駄な半年を過ごしたって感じです。練習は全くしてないですね。8月終わってから12月くらいまではほぼ何もしなかった」。
ただ、転んでもただでは起きないのが水谷だった。
「正直、今でも状況としては何も変わってない。でもロシア行きのきっかけにはなった」。
この時の虚しさが、水谷に火をつけたのだという。
「ロンドン終わって5ヶ月ぐらい離れたときに、誰も手を差し伸べてくれなかったと感じた。『好きなようにやれば?』みたいな感じで。それで、なんか自分もイライラしてきて、『このまま一人で強くなってやろう』って。そういうのもあって、ロシアですね。一人で強くなってやるという気持ちがあって、ロシア行きを決めました」。
写真:伊藤圭。ロシアリーグ挑戦が水谷を更に強くした
こうして水谷は日本、ドイツ、中国に続く4カ国目の修行の地として、2013年から単身でのロシアリーグ挑戦を決めた。北半球最北端の地で、孤独と戦いながら卓球と再び向き合う日々が水谷に再びハングリー精神を宿らせる。また、ロシアの国営企業がスポンサーにつき、ビッグマネーが動くハイレベルなリーグで世界のトッププレイヤー達と競い合う日々が、水谷のメンタルを更に強くした。
その結果、2016年のリオ五輪では決勝の中国戦を含め団体戦全勝。シングルスでもメダル決定戦で奇しくもロシアリーグでのチームメイトのサムソノフ(ベラルーシ)を破り、3度目の五輪にして2つのメダルを手にした。
写真:ロイター/アフロ。リオでのシングルスメダル決定の瞬間
最後の敵、視界不良を乗り越えて
リオ五輪の後、2017年2月に世界ランキング自己最高位の4位につけた水谷。
東京五輪を目指す水谷にとって、難敵となったのが視界不良の問題だ。2018年頃からは客席が暗く、卓球台がライトアップされた環境下においてボールが見えにくくなった。目の治療に加え、サングラスによる調整などで思考錯誤を繰り返すも、今も完全な回復には至っていない。
写真:ラリーズ編集部。Tリーグでプレーする水谷隼
それでも東京五輪の行われる東京体育館は水谷が全日本選手権を何度も制した聖地でもあり、照明も明るい。水谷にとってはプレーしやすい場所だ。
「明らかに東京体育館でのオリンピックのプレーっていうのは、ワールドツアーでのプレーの2倍くらいはよくなると思ってるので。去年1年間はシングルスの代表権を得るために勝たなきゃならないってプレッシャーがあって、それがさらに悪い影響を及ぼしてたのかなと思うんですけど、今は東京ではいいプレーができるかな、って。ただ最近はその、環境に関係なく見づらいっていう部分はあるんですよ。でも7割までは普通の状態であれば回復できると思う」。
完全に不安が拭えているわけではないが、力強くこう締めくくった。
「まあ充分ですね 7割あれば」
水谷に訪れる新たな困難
ここに来て、東京五輪の約1年延期が発表された。
3月のTリーグプレーオフや世界選手権も延期となり、試合感覚が重要な卓球アスリートにとって、大きくペースが狂いはじめている。
とりわけ水谷にとっては「キャリアのゴール地点」と据えていた東京五輪の時期が遠のき、またもや難しい状況が訪れた。
写真:伊藤圭。水谷に困難が襲いかかる
だが、水谷にとっては、これが最初の苦難ではない。
やるべきことをやって、天命を待つ。これまでと同じように。
水谷がその輝かしいキャリアの裏で、苦悩し、そして乗り越えてきた壁の一つ一つも、ちょうど今の私たちが直面しているような、前例のない困難ばかりだったのだから。
Rallys×水谷隼 インタビュー動画はこちら
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